sakura. | ナノ
 故郷の桜がいかに素晴らしいかを、私は質問に来るリドルを捕まえては熱弁した。聞き飽きたであろう私の話を、始終やわらかな表情で、辛抱強く聴いてくれていたリドルの姿を今でも思い出す事ができる。それくらい彼に何遍なんべんも話して聴かせたのだ。そして最後はリドルが似通った質問をし、私は私で似通った答えを返す。よくよく考えると、私とリドルの会話は、壊れたテープが延々と同じ所を繰り返しているようなものだった。

「日本にはお帰りにならないのですか」
「魔法の勉強がしたいって、縁談放り投げて来てしまったから今更戻れないでしょう」
「イギリスの桜とはどう違うのですか」
「よく分からない。けれど違うのですよ。もしかしたら贔屓目なのかもしれませんね」
「桜は先生のように美しいのでしょう」
「お世辞が上手くなりましたね。私は女生徒ではないので騙されませんよ、けっして」
「先生の魔法で再現できないのですか」
「無理です。あんなに素晴らしいものを魔法で作り上げる事は一生できないでしょう」

 話は大抵ここで途切れた。私が自分の非力さに沈んでしまって口を閉ざすからだ。リドルはやっと長い話が終わった、と私に知られぬようにその場を静かに去ってしまう。気付く頃には、一口も口が付けられていない紅茶が入ったカップが寂しそうにいつも私の横を浮遊していた。手を伸ばし触れると、陶器の元の温度が私をひやっとさせるのだ。そうして、またつまらない無駄話をしてしまったのだと、魔力を失ったカップが地面に落ち甲高い悲鳴を上げるのも気にしないで、私は黒い海に身を投じる。それが常であった。しかしリドルが再び姿を現すと、そんな事は忘れてしまうのであった。


 リドルが監督生になった時、日本から持ってきた桜の栞を彼にプレゼントした。彼が微妙な顔をしたので、不安になって尋ねると、彼は口の端を3ミリ程度持ち上げ、

「先生の、先生の大切なものなのでは」
「まあリドル、そんな事など気にしなくてもいいのですよ」
 
 あなたにあげたいと思ったのだから、リドルの肩に手を乗せて微笑む、その時私は彼に生徒へ向けるべきではない愛情を抱いているのを初めて認識した。自分の手がじんわりと熱を持ち、すぐ横にある白い喉に触れたいと思った。彼を見やると、彼はまだ栞を見つめており、私はそんな彼から視線を逸らさないように、ごく自然に彼の肩から手を浮かし、自分の腹辺りで、両指を絡ませ解けぬくらいきつく結んだ。時間にすると1秒も満たなかったが、私にとっては非常に長く感じられた。不審に思った彼が、こちらに少しでも目を向けてきたのならば。私はきっと赤面してしまっていたに違いないだろう。

 それから私はリドルと距離を置くようになった。彼が質問に来ても、それに答えるのみで、桜の話はおろか、世間話さえしなくなってしまった。そうすると何かを悟った彼は徐々に私の所に来る回数を減らしていき、彼の卒業が近づく頃にはとうとう来なくなった。最後に見た時、彼が開いた教科書のページには、あの栞がくたびれた状態で胡座をかいていた。


 雨が降り続いていて1週間、5月の丁度終わり、その日の私は目眩がする程疲れ果てて、すぐにベッドに潜り込んだ。しかし、窓の向こうに植わっている、桜の葉のざわめく音が何故だか煩わしく聞こえ、中々寝付くことが出来なかった。その桜は私がホグワーツに入学する際、日本から持ってきた苗を勝手に植えたものだった。もう15年も前になるが、桜は、蕾すらつけた事がなかった。まるで私のようだった。

 ――雨音に紛れ、誰かが窓を叩いている。混濁した意識の中でその音を耳が拾い上げた。体を起こすと、カーテンに人影が映り込んでいた。椅子にかけていたカーディガンを羽織って、杖を片手にカーテンの端をめくり上げてみると、そこにはリドルが立っていた。髪からは雫がぽたぽたと落ちている。5月といっても、夜の雨はやはり寒いのだろう。彼の唇は紫色に変色していた。叱る為に身を乗り出し、窓を開けると、彼はすかさず私の腕を掴み、言った。

「一緒に来てください」
「リドル、先生の言いたい事が分かりますね」
「お願いします」

 雨はいつのまにか殆ど止んでいて、名残惜しそうに申し訳なさそうに、やわらかな雨粒が額にいくつも落ちてくる。リドルは一体いつから外にいたのだろうか。彼の羽織っている薄手のコートは雨をたっぷり含んでいるように見えた。
 私はリドルに手を引かれた状態で、足を進める。しばらくすると目を閉じるように言われたので、言われた通りにすると、今度はこのまま待っているようにと肩を叩かれた。

 風が私の前髪を揺らすので、少しくすぐったかった。すると。頬に、葉にしては小さく、柔らかすぎるものが張り付いた。触れて、私は暗闇の中、驚いた。

「先生もういいですよ」

 この方向には葉桜がある。そのはずだった。弾かれるように目を開けると、視界は桃色に覆われた。風がどんどん強くなり、花を散らす。月が切れ目から覗き、散花を鮮やかに照らし出す。目の前には、満開の桜の木があった。もっとよく見てみようと、瞬きを一回大きくすると、そこにはいつもの桜の木があるだけであった。リドルが表情を曇らせて、私に一言謝った。

「僕にはこの程度しかできなくて」
「充分よ!今まで見てきた桜の中で一番綺麗だったわ!あなたはやっぱり天才なのね」
「いいえ、そんな事はないです。先生が下さった桜の栞を元にして作ったようなものなので」
「それでも、私の魔法ではこんな事出来ない。それに、まだあの魔法は未完成ですから」

 私が個人的に研究している魔法は、細胞の発達を強めたり、そのままで固定したりするものだった。うまく使えば非常に便利だったが、同時に同じくらい危険でもあった。それ故、魔法省の許可無く他人に教えてはならない、ときつく言われていた。
 そしてその日、私は彼と桜の木の下に腰を下ろし、禁忌の種を彼に躊躇なく与えた。催眠術でもかけられていたのか、とてもいい気分で、いけない、などと一つも思わなかった。今思うと、リドルはその魔法を卒業前にどうしても手に入れたかった為、桜を咲かせてみたのだろう。そんな素振りを微塵も見せずに、彼は堂々と種を受け取り、二度とその種は私の元に帰って来なかった。要するに、私は忘却術をかけられ、全人生を捧げてきたその魔法を、全て忘れてしまったのだ。加えて彼は私の部屋の資料すらも奪っていった。その後の私がどれだけ苦労したことか。何も思い出せず、ただ周りや魔法省に罵られる日々!思い返すだけで頭痛がする。長い年月をかけて大分術を解く事が出来たが、肝心の部分はとてつもないくらい強い魔法がかかっており、今でも思い出せずにいる。彼は私から奪った種を咲かせる事が出来たのだろうか。
 
 しかし、リドルをどうしても憎みきれなかった。私の中で、彼はどうやっても素晴らしい生徒だったのだ。認めたくはないけれど、初めて人に安らぎを覚えたのが彼だった。桜の木の下で過ごしたあの幸福の時間は、いつまでたっても色褪せる事はない。

「その魔法が完成出来れば、人の老化も止める事が出来るのですね」
「ええ、でもとても危険です。時を止めてしまう事は、時間の流れに逆らう事」
「どうしてでしょうか?この桜の木だって永遠に綺麗なままでいられるのに。先生はそれを望まない」
「終わりがあるからこそ美しいと思えるのですよ。終わりがなければ、美しいものも美しくなくなってしまう。それに私たちは、その一瞬の美しさをちゃんと記憶の箱にしまう事が出来る」
「僕はそんな曖昧なものを見たくはないです。こうしてずっと永遠に愛でていたい」

 リドルの手が私の髪を掬いあげて、少年らしくない笑みを見せる。経験のない私はそれだけでたじろいでしまった。

「先生は若く美しいのに、このような所で老老いゆくつもりですか」
「私にとってここが”ホーム”です」
「もっといい”ホーム”があるというのに」

 記憶はここで途切れていた。トム・マールヴァロ・リドルは、本当に小賢しい男だった!


「遅すぎたわね、もう葉桜になってる」

 すっかり年老いた私は、柵に囲まれた有名な桜の前にひとり立っていた。ヴォルデモートと決着がついて、もう5年も経っていた。周りを見て、誰もいない事を確かめると、私はその柵を乗り越え、木に手を添える。

「学生時代・教師時代、規律を守る人だった私も、年を取ると大胆になってしまうものね」
 
 ああ、でもあなたといた時の私は、いつでも初な女生徒だったかもしれない。手に持っていた茶色の紙切れに話しかける。

「あなたに本当の桜の素晴らしさを見せてあげたかったけれど、どうにもあの時以上のものには出会えないわ」
 
 目を閉じると、いつだってあの桜は目の前にあった。

「そうそう、あなたに言って無かった事がひとつあるの。美しい桜の木の下には、死体が埋まってるって」

 日本の桜の印象を悪いものにしたくなくて、ずっと言えなかった事。でも今日で終わりだからいいのだ。私の足腰ではもう長い距離を歩けそうにない。命も干からびかけている。

「あなたが何故これをずっと持っていてくれたのは分からない。まあその謎解きは置いといて、あなたと共にいたなら、きっと強い魔力を秘めている事でしょう」

 ひらひら舞いながら紙が地面に落ちる、それは桜の散る姿を彷彿とさせた。その姿を最後まで見届けると、また柵を乗り越え、私は来た道を戻る。と、額に、雨粒がぽつん、と落ちた。そうしてだんだんと雨足が激しくなる。

「天気予報では雨なんて」

 風の向きが変わった。背中に強い風が吹き付け、桃色が私の視界を勢い良く通り過ぎる。導かれるように振り向くと、そこにはあの時と寸分狂いもないあの桜の木があった。ひとつ違うのは、いくら瞬きをしても消えないところだった。

「あなたは私が一生かけても咲かす事が出来ない花をきちんと咲かしてくれたのね。捨てる事だって出来たでしょうに」

 これが世界を震撼させ、そして哀れな末路を迎えたあの魔法使いの最後の魔法だと思う者はひとりとしていないだろう。瞬きをすると目の縁の雨粒が降り注ぐ雨に紛れて静かに落下した。

がやんだらもこぼれて


2013.03.09 企画提出
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