「センパイ〜俺倉持センパイからセンパイと飲む禁止令喰らったばっかなんですけどォ」
「倉持に言わなきゃいい話じゃん。てかバレても私がどうにかするから。今日も奢るし、ほら好きなの頼んで」

 まじっスか、と目を輝かせてメニューとにらめっこをし出す沢村を見ながらビールを煽った。ああ御幸もこのくらい単純だったら、と思いかけ、いやそれで御幸ではないし好きになっていないなと腹心で思う。しかしだからこそめんどくさいのだ。昨日の夜は御幸とまたうまくやっていけるのではないか、と高揚した気分であったのに、今朝の一連で気分はどん底。関係においては一番最悪な状況だ。

 仕事だとどんなに予想外の事が起きても冷静に動けるのに。今日急遽出たイベントを思い返しても本当にそう思う。大人の恋愛というものはなんでこんなに悩ましいものなのだろうか。いいや、若い頃は若い頃で些細な事で喧嘩して泣いたり、くだらない事で悶々と悩んだりしていたな。度々死んでしまいたいとも思っていた。今となってはそんなもの鼻で笑ってしまうものになっただけ。抱える悩みはその時の自分にとっては大きなものに感じてしまうに違いない。今の悩みだってきっとそう。数十年後、あの頃は若かったなあと年老いた伴侶の横でふっと思うのだろう。はて、その伴侶は誰になるのか。真っ先に思い浮かぶのは眼鏡野郎で、今日告白めいた事をしてきた新島君ではない。老いて皺の入った、しかし頼りなさは消えないであろうその手を握りたいと思うのは、たったひとりなのだ。はあ、とため息をつく。

「あっそうだ!さっき御幸、センパイも誘ったらすぐ来るって言ってましたよ!」
「へえそう、えっ?」

 そうだ、沢村は馬鹿だった。俺も空気くらい読めるようになりました!と嬉しそうに報告する沢村を置いてとっとと帰りたい。

「き、今日はお開きにしようか」
「まだ始まったばっかりですよ!」

 立ち上がろうとしたところ、服のすそをグイッと掴まれる。くそ、だったら御幸が来る前に潰れるまでである。理性さえ失えばこっちのもんだ。なかばやけくそになりながら当店自慢と書かれている日本酒を一気に 5合注文する。




「おい、お前に返事して15分もかからずに来たのになんでもうコイツ潰れてんの?」
「俺に言われても困るんですけど」

 息を切らせて飲み屋に駆け込んでみたら、もう彼女はべろんべろんに酔っ払っていた。沢村も彼女に大分飲まされたのか、耳まで赤く染まっていた。

「あ〜〜〜御幸だ〜〜〜〜沢村聞いてよ〜〜〜こいつこの歳になっても盛ってやんの!びっくりだよね〜〜〜」
「おい後輩前にそういうこ」
「それ言うの 3回目ですって!酔いすぎっスよ〜」
「あっれーそうだっけー?あっおじさーんこれ追加で!」
「俺もお願いしやーす!」
「お、いくねー!」

 彼女は沢村の肩に腕を回し、嬉しそうに酒を煽った。自身が素面の状態で酔っている彼女を見るのは初めてで、倉持や他の先輩などが「あいつは酒が入ると距離感が際どくなる」とぼやいていた意味がやっと理解できた。

「沢村、お前帰れ」

 彼らの間に割って入り、彼女の腕を沢村の肩から(無理矢理)外しながら沢村に微笑みかける。

「えっまだ始まったばっか」

 沢村の肩に手を置いてもう一度同じ事を言うと、本能で何かを理解したのか、沢村は無言で頷いた。いそいそと帰り支度を始めた沢村を見て、彼女が悪態をつく。

「ちょっとォ、私が呼んだのになに勝手に帰らせようとしてんの〜」
「まあ気にすんな!俺がその代わりとことん付き合ってやるから、な!」
「う〜んだったらいいか〜沢村ァおつかれ〜」
「あっおい、沢村ちょっと待て」

 俺のただならぬ何かを悟っている沢村は先ほどと打って変わっておとなしく退散しようとするので、俺が呼び止めただけでびくっと肩を揺らした。

「お前、あいつの家に時計忘れてただろ」
「あ、あざーす」

 じゃあこれで、と言いかけた沢村の肩をこちらに引き寄せ、耳打ちする。


 青ざめて帰っていく沢村の姿を見ながら、少しは彼氏ヅラできたのではないだろうかと満足した。しかし、1番問題なのは彼女自身である。振り向くと、来た酒をまたガバガバと飲みながら鳥のせせりをつまんでいるところだった。


「おい、もうそれくらいにしろ。帰るぞ」
「えっ付き合ってくれるって言った!」
「家で付き合ってやるから」
「やだやだ!絶対エッチな事する気だ!」
「……逆にしたらいけねーのかよ」

 そ、それはと途端に口ごもる彼女を少し面白く思いながら、店員に会計を頼んだ。彼女はまだ納得できないようで、こちらをずっと睨んでくるが、無視をして伝票を待つ。そして伝票を渡されると同時に彼女のバッグを掴みレジへ行こうとすると、彼女は慌てた様子で席を立った。やはり足取りは頼りげない。

 会計を済ませて外に出ると、思ったよりも涼しい事に気が付いた。今年は冷夏というのは本当のようだ。後からノロノロと出てきた彼女うまく歩けないようで、ふらつくものだから、俺は仕方なく彼女の肩を支えてやる。

「……ありがとう」
 なんだ、その不服そうな顔は。つい意地悪してやりたくなり、わざと腰に手を回して尻を撫でると、彼女は猫のようにばっと俺から離れた。しかし、彼女の反射神経は酒によりうまく働いていない。バランスを崩した彼女はまるで漫画のように勢いよく尻餅をついた。

「はっはっは!なにやってんのお前!腹いてえ」
「み、御幸がセクハラみたいな事するから!」
「ウブな女子中学生じゃあるまいし、ちょっと触られたくらいでそんな反応すんなよ」

 ひとしきり笑った後、尻餅をついたままの彼女に手を差し出すとばちんっと払い除けられる。ほんと前にもまして可愛くねえ。

「酔いもさめたんで、一人で帰れます」

 立ち上がりかけるが、やはり酒は抜けてないようで、足が震えている。俺は彼女の前に腰を下ろして自身の背中を差し出した。

「なに」
「おぶってやるよ、どうせそんなんじゃ歩けねえだろ」
「別に大」
「いいから、ほら」

 有無を言わせない声色で言うと、彼女は渋々といった感じで俺の背中に乗ってきた。彼女の気が変わらない内に、と乗った瞬間よっと立ち上がる。

「う、わ、ちょっといきなり立ち上がらないでよ!」
「はいはい、帰りますよ」

 彼女の家までは、走れば15分程度。電車に乗るまでもない。俺は人通りの少ない道を選んで走る。いい汗をかきかけたところで、彼女がおもむろに話しかけてきた。

「御幸、あのさあ」
「ん、なんだよ」
「……だよ」
「あ?なんて言った」

 街灯の下で立ち止まって聞き返すと、なんでもないと彼女は秘密を隠した少女のようにふふふと笑い、俺の額から垂れる汗を手のひらで拭った。

「歳を取っても横にいるのが御幸だといいなあって思うんだよ。どれだけ一緒にいれなくても、喧嘩してもね。不思議」
「……ふーん」

 俺はなんて答えていいか分からず、とにかくこの気恥ずかしい気持ちをどうにかしようとさっきより早いペースで走り出す。

 風が頬切る。ああ背中から伝わる彼女の体温が、気持ちいい。彼女をおぶってどこまでも走れそうな気がした。

 願わくば、先ほどの言葉が、酔いから発せられた気まぐれのものではあらんことを。

夜の瞼 朝の腕
真夜中を飲んで朝に口付けを
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