彼はやさしい。あたたかい。
だから、急に抱き締められて吃驚したのだ。そのあたたかさをこの肌で感じて、私は己を恥じた。彼は私に愛を説いた。何回も好きだと、耳元で囁いた。
彼は他の男子よりハンサムで、女子に人気があったが、彼は決して女子に振り向く事はなかった。きっと彼にとっての青春とは彼らと過ごす、それで全てだったのだ。
誰も好きになってはならない。入学当初から決めていた。だから、私は彼らと共にいた。固く、強く、あたたかい友情に結ばれている彼ら。心地よかった。自分の立ち位置を忘れ、その生温さに浸り切っていた。いつか、冷める事を知っていた。知っていたはずなのだ。
それは彼のひとすくいの水によって、湯はたちまちに凍りついてしまった。彼はこの仲間で過ごす事を1番良く思っていたはずなのに。……本当にそうだろうか。
私は知らないふりをしていたかもしれない。彼が私に向ける、あの熱を持った眼差しを。私は、勘違いだと決め付けて、そして甘えていた。
私の出生を知ったら、彼はどう思うのだろう。きっとそれでも愛してくれる。だって、彼は優しい。そしてジェームスより、貪欲だ。いつだって愛に飢えていた。けれど、私を愛す事によって、彼はどれだけの代償を払い、傷付く事になるのだろう。
「シリウス、それは若気の至りだと思う」
「若気の至りだと恋もしちゃいけないのか?」彼はそうからかって笑うが、その声は震えていた。
「そういう意味じゃないよ……私以外にも」
「お前以外だと若気の至りじゃないって言いたいんだろ」
彼の癖毛が私の首に触れる。くすぐったい。それ以上に左手首が熱い。炎を発しているような感覚だ。私の罪を責めているのだろう。今すぐにでもその業火で焼いて欲しかった。
「シリウスは、きっと本当の私を知らないからそう言えるんだよ」
「だったら教えてくれよ、なあ」
「それは」
彼は、女に慣れていない。ぎこちない動作で手が下へ動いて行く。厭ではない。厭ではないから、こんなにも胸が痛いのだ。灰色の目が、私を靄に誘う。やがてそれは霧になる。そのまま何も見えないままでいたかった。見えないふりではなく、本当に何も見たくなかった。これから私が太陽に背を向ける道に進んでいくという事を。彼とは正反対の道に進んでいくという事を。
私の瞳は、蜂蜜色だった。唯一母に似た所だ。それ以外は、紅色の目を持つ父に似た。
みんな、太陽の色だと言った。そして、お前にぴったりだね、と褒め称えた。彼は、そんな私を少し羨んでいた。私は、なにもかもを煙に巻いてしまうような、彼の灰色が好きだった。私の不安や悲しみを一時的に隠してくれるような、そんな一種の麻薬的な彼の瞳が。そう言った時、彼はどんな顔をしたのだろうか。もう思い出せない。違う、思い出したくないだけだ。そうやって、ずっと誤魔化してきた。彼の心も……私の心も。
「シリウス、あなたが、ブラック家に従順だったら良かったのに」
「なんでそんな事を言うんだ。お前は、勇気のあるものだけが選ばれるグリフィンドール生だろ」
「それが、操作されたものだったら?」
私の首元から、彼の頭がゆっくり離れる。彼に顔を見られるのが嫌だった。今度は私が彼の首元に顔をうずめる番だった。
「シリウス、忘れよう。なにもかも。ここは必要の部屋。なにもかもが揃ってる。そして私たちが必要としていないものは、なに一つここには現れない。誰にも邪魔されない」
いつの間にかあらわれたベッドに座り込んで、私は彼の手を引いた。だから、この傷さえも必要の部屋では消えてなくなる。そう信じたかった。だって、そのための魔法だろう。
「愛せる事ができたらどんなに幸せかな」
試験が近い彼女と私は、図書室で勉強していた。恋人から貰ったしおりを大切そうに卓上に置くのを見て、咄嗟に声が出てしまった。いつだって彼らの前では、私の口は考えるよりも先に動く。
「……シリウスのこと?」声をひそめて彼女は言った。揺れ動く髪から匂うのは、百合のフレグランス。
「そうじゃなくて」
「どうしてダメなの?そりゃあ彼だって子供ぽい所はあるけれど、そこがいいんじゃないの。同い年の人は幼稚ぽく見えるものよ」
「ダメなのは私だよ」
「否定してばっかり。それにあなたかなり痩せたわね。大丈夫?ちゃんとご飯食べてる?最近ご飯の時に出てこないけど」
「……昨日の晩チーズをひと切れ」
彼女の顔が見る見る青ざめる。言うんじゃなかった。その繰り返しだ。
私の手から羽ペンを取り上げて、片付けをはじめ出す。いつもの彼女からは想像出来ない片付けぶりだが、しおりを取る手はやはり優しく、慈愛に満ちていた。
「私はずるいなあ」
「どうして」
抱き締めたい人がきちんと誰か分かっているのに、私は臆病だから、それが出来ない。それは愛に答えるのと同じようなものだから憚られるのだ。期待させてはいけないし、期待してはいけない。だから、私は目の前の、柔らかく甘い彼女を抱く。そうやって、求めているものが誰でもいいのだと思いたい。
「私の左腕にはなにがある?」
「なにもない」
「よく見て」
シーツを滑る彼の手が私の左腕をゆっくり掴んだ。行為をした後だというのに、私の身体はすっかり冷え切っていて、彼は眉を顰めた。
「白い。髪の色とは対称的で、俺は好きだ」
ここは必要の部屋。言い換えると見たくないものは見えない。私と彼にぴったりの部屋だった。見なければいけない。本当は彼だって、勘付いているのだ。認めたくないからと、見ないのは、子供のする事。私たちは、もう、そんな年ではない。
「私を見て」
「今日は要求が多いな」
私の腕から視線を外し、目と目が合う。腕は握られたまま。たまに撫でるその指が泣き出したいほど気持ちが良かった。しばらく見つめ合った後、彼の視線は再び私の腕に戻る事になる。冷たかった筈の私の腕が今は鉄が熱せられたように熱かった。
私の腕に浮かび上がる紋章を見つけた時の彼の表情は、――思い出したくもない。彼は、私の額に自らの額を寄せ、ただ一言大丈夫だと、言った。そんなもの一瞬の慰めにしか過ぎないと分かっているのに、その言葉に酷く安心した。
裏切った事を父が知ったら、一体どうなるのだろう。きっと死よりも苦しい事が待っているに違いない。大きく深呼吸をした後、シーツの中に隠していた杖を取り出して私は彼の喉元に当てた。
「ごめんなさい」その懺悔は誰に?きっと私自身に。
吹雪の中、壊れかけたチャイムが来客を告げる。
「どうも、お久しぶりです」
「ハリー!来てくれたのね。何ヶ月ぶりかしら」
英雄もあれから年を取った。今ではもう3児の父親だという。どおりで私も老ける訳である。熱い抱擁を交わした後、私は彼をリビングへ招き入れた。
「あっこれお土産です。あと、これとこれも」
席に座らせた途端、彼は次々と私に土産を渡してくれた。右手しか無い私は、そんな一度にたくさんは受け取れない。少し怒ったように諫めると、彼は照れくさそうに笑った。
「すみません、久しぶりなもので」
彼は私の夫によく懐いていており、その為か私にもとても親切にしてくれた。時が経ち、世界が暗い過去を過去に押しやってからも、彼は今でもこうして姿を見せてくれる。
「下の息子も、もう来年からホグワーツの生徒ですよ」
「そう、それはめでたいわね!お祝いを用意しなくちゃ」
「ありがとうございます。息子も喜びます。……あー、シリウスの絵はまだ出来ていないんですね。描き始めてもう5年くらい経つのに」イーゼルに置いてあるキャンバスを指差しながら、彼は言った。
「ええなんだか上手くいかなくて。あっ勝手に布を取らないで頂戴ね。完成するまで誰にも見せたくないの。……さて本当に言いたい事はそうじゃないでしょう」
「お見通しなんですね」
「私が誰だかお忘れのよう?」
「いえ、そんな事は。……あなたは、いつまで一人で暮らすおつもりですか」
「その話は前にも断ったでしょう。それに決して一人なんかじゃないわ」
「シリウスは、僕に言いました。全てが終わったら共に暮らそう、と。約束は果たされませんでしたが、しかし、あなたがいます。ここは一人で住むには、寂しすぎます」
「ここは主人が残してくれた家よ。主人がここにいない今、家を守るのは私の役目」
きっぱりと言い切ると、彼は不服そうな顔をした。
「それに、私は、とっとと早く死ぬべきだわ。リドル家、いえゴーント家の血は私で終わらせなければ」
「そんな事、言わないでください。あなたはトムとは違う」
「ええ、私は父とは違うわ。彼が、シリウスが、私を変えさせてくれた。怖がらずに愛していいのだと、言ってくれた。でも、父にだって、そんな人がいたのよ。だって私を産んだ人がいるんだもの。運命っていうのは残酷ね。少し違うだけでこんなにも人の運命を変える」
私は運が良かっただけ、あとは父と何も変らないわ。
項垂れて帰っていく後ろ姿を、申し訳ない気持ちで見送っていると、リビングからガタンと音がした。慌てて戻り、キャンバスにかかった布を取ると、見慣れた後ろ姿がそこにはあった。
「あら入れ違いね!今さっきまでハリーが来ていたのよ。残念ね。ふふ、今度は貴方が項垂れる番?いえ、ね、一緒に暮らさないかってまた言ってくれたのよ。でもねえ本当はいけないのにこんなものを作ってしまったから無理でしょう」
鏡越しに手を合わせるように、私達は手を合わせ、額を寄せた。あの時感じた体温をもう感じる事は出来ないけれど、私の心はあの時のようにあたたかい。
左腕が落ちた晩、私は永遠の愛を手に入れたのだ。
「大丈夫、寂しくはないわ。貴方がいるもの」
涙が彼の頬に落ちて、じわりと周りに拡がってゆく。彼も泣いているようだった。
星の軌跡
なでるゆび先140208 dear 奈央さん