赤色のローブを羽織った少女が、石で出来た塀の上を器用に歩きながら歌を唄っていた。長い黒髪を白いリボンでゆるく結んでいるその後姿だけで、僕はその少女が誰だかを認識した。僕の記憶力がいいからだけではない。
彼女は、あまりにも、この学校で有名すぎたのだ。
彼女は、ホグワーツ魔法魔術学校の歌姫と呼ばれているくらい、歌のうまい少女だった。クリスマスのミサで僕も一度だけその姿を拝見した事がある。クリスマスを心待ちにする幼女。神を讃える聖母マリア。町で見かけた見知らぬ少年に恋をする少女。歌う楽曲によって姿を変える彼女に誰しもが息を呑んだ。僕は、感心はしたが、その奥にいる彼女が何者なのか気になった。
ただの純粋無垢で歌を愛してやまないおこがましい少女か。はたまた心に悪魔を飼い殺し淑女のふりをしている、こちら側の者か。そこまで考えて、自分の考えがいかに馬鹿らしいかを悟った。どうでもいい事だ。自分には関係ない。
踵を返し元来た道を戻ろうとしていると、視界の隅で、彼女の体が右に大きくぐらつくのが見えた。右には大きな岩がある。頭の中で、岩の横で赤い花を咲かせる少女が浮かび上がる。そこには顔がない。しかし、口の部分だけがぽっかりと黒い穴が空いていた。空洞の中には何が見える?
ああ、僕は彼女の顔を知らない。
舌打ちをして、足を大きく動かした。
腕の中で抱えた彼女の顔には、きちんと顔がある。当たり前だ。瞳の部分にはきとんと瞳が存在し、鼻の部分にはきちんと鼻が存在していた。もちろん空洞なんて無く、唇の隙間から人よりいささかするどい犬歯がちらついてみえる。彼女は危ないところだったというのに、なんで自分がこうなっているか全く分からないという表情をしていた。一重の瞳が僕を映し出す。瞳孔が大きくなり、そして小さくなった。瞬間彼女は僕の体を押しのけて、後ろの石の塀に背中を預ける。大半の女生徒が恥じてこういった行動をするのだが、彼女からそんなものは感じられなかった。蛇を警戒する子リス、といったところだろうか。
「私、嫌いな人にありがとうって言うのが、私の中で一番タブーなの!私の音が澱んでしまうから。ああもう貴方が触れたところぞわぞわする。きっと貴方がつけた傷から貴方の毒が入っているんだ。こういうのが一番厄介!だってこの傷は目に見えないんだもの! 」
また歌えなくなっちゃう!と悲鳴をあげて悲しむ彼女に、僕は笑い声がもれる。彼女は純真無垢でもなく、悪魔を飼い殺す淑女でもない。ただこの世界では生きにくい頭がおかしい魔女だった。
「なにを笑っているの?それより貴方トム・リドルでしょう?やだやだ、私が本当にいっちばん嫌いな人だ!どうしてまだここにいるの?嫌いって言われてるのになんで立ち去らないの?」
「ひとつ聞くけど、なぜ僕の事が嫌いなんだ」
「わあもう喋らないで!偽りの音よ、それ。貴方の音じゃない。私の音までおかしくなりそう。チューニングは必要かもしれない」
言っている事は支離滅裂だったが、少しだけ分かる気がした。きっと、彼女の音に対する敏感さは持って生まれた才能なのだろう。僕がそうであるかのように。
「じゃあ僕の本当の音はなんだって言うんだい」
「そんなの知らない。だって私貴方の本当の音を聞いた事ないもの。多分今の音よりはまともなんでしょうね。今の音は、そうね、ひきがえるを潰したような音。無理矢理高い音を維持して、余裕ぶってる無様で哀れなボーイソプラノ!でも本当は、捨てられて欲しくなくて綺麗なふりをしている可哀想な男の子。本当の自分なんか誰にも愛されないと思ってるの?何を怖がっているの。自分の音を愛せないのは自分の音を愛してやらないからなのに!」
ここまで一気にまくし立てると、「さっき言ったようにお礼なんて言ってやらないから!」と叫んで、彼女はうさぎのように走り去っていった。呆気にとられてそのまま突っ立ったままでいると、彼女が、今度は馬のように駆け戻ってきて、息を切らせながら言った。
「でも、私謝らないのは、私の中で二番目のタブーなの!嫌いな人にお礼を言うのが大嵐だとしたら、謝らないのは一日中曇りの気分。だから言うの。お礼を言わなくてごめんなさい」
あの岩の場所。そこが彼女と落ち合う場所になった。彼女はいつでも僕を望んでなんかいやしなかったが、最初の頃よりは幾分かましになった。
「今度ソロでコンサートをするの。世界中を回るんだ。だから学校はおやすみ。もし次に私に会いたいんだったら、青が駆けて寂しがり屋が泣いて重苦しい世界が明ける時」
「つまり、春か」
「私決まった言葉使うの大嫌い。なんでこんな大きな流れを一言で表すのかしら」
「喋るのが楽だからだろ」
「それよりも私はもっとたくさんの音を聞いていたい。それに最近駄目なの。少女の声から大人の女性の声に変わってきて、分からなくなる。だからこそ今回のコンサートで何か分かったらいいな」
どこかを見据えるように凛とした声で彼女は言った。しかし、背負う空気はどこか寂しげだった。
「たとえどんな音であろうと、僕は君の音が好きだよ」
「ありがとう。うまい、とか綺麗とかより、そう言ってくれるのが一番嬉しい」
彼女は滅多に笑わない。いつも音を聴くのに忙しいからだ。その彼女がゆっくりとした動作で目元を緩ませ、頬をあげて、にんまりと笑った。僕はなんと言えばいいか分からなくなって、思わず揚げ足を取る。
「嫌いな人に、お礼は言わないんじゃなかったっけ」
「ああ!そうだ!禁忌をおかしてしまった、どうしよう」
「大嵐の気分?」
「いいえ。厚い雲からお日様が久々にこんにちはって言ってくれてる気分。不思議」
「僕は晴れているのに突然大雨に降られた気分さ」
彼女がまた笑う。嫌な気分はせず、僕は春の訪れを密かに心待ちにした。
春になる前に彼女はものいわぬ人形となって学校に帰ってきた。大雪が降る夜だった。コンサートはどうやらマグルの世界も含まれていたようで、1943年11月18日イギリス空軍によるベルリン空襲で彼女は命を落とした。元々、長く続くマグルの戦争を目の当たりにした時点で彼女はかなり情緒不安定だったらしい。燃えゆく街を見て、彼女は吠え立てたという。鬼の形相だった、あんな彼女は見た事がない、と付き添いの女はハンカチを濡らしながら語った。
目の前にいる彼女からはそんなものは微塵も感じさせなかった。あの時のように腕に抱えれば、まるでなぜ自分が棺桶の中にいるのだと目をぱちくりさせるのではないか。頬に触れたが、ひんやりとしており、生は感じられなかった。
手に持っていたアスターの花束を彼女の顔の横に置き、僕は彼女のおでこに接吻をした。
「僕が全てを終わらせるよ。それまで君は待っていて」
僕の音に彼女の睫毛がかすかに揺れた。本当の僕の音は、彼女だけが知っていればいい。
グンナイスイートシープ
20131118
素敵企画「
Nowhere man」提出
テーマミュージック「Help!」