私は、貴方の傘になろう。降り注ぐ全てのものを私は受け止め、流そう。そう思っても、やはり彼の体には何かしらのものが付着してしまうのだった。それは、一瞬にして染み付き、一生取ることが出来ない。
「お前は、もう除団しろ」
彼はある日唐突に言った。それは、腕を一本無くした次の朝だった。
「なんでそうなんの」
「腕なしじゃ戦えない」
「もう一本ある」
「利き腕を無くしてんだ。無理だろ」
「鍛えればなんとかなる」
そう言うと彼は押し黙って何も言わなくなった。そうしてしばらくすると、「勝手にしろ」と部屋を出て行ってしまった。怒っているのが分かったが、私は笑いながら「勝手にする」とひとり声を漏らした。そう、私は勝手にする。勝手にするから、どうか私なんぞ気にしないで欲しい。私は貴方の体に染み付きたくなどないのだ。
腕一本というのは、やはりとても不利だった。日頃の訓練では庇いきれない事を悟り、夜中の一人訓練を始めた。そして同時に日記をつけ始めた。家を出る時に親がくれた小ぶりの分厚い手帳には、最初の頃は歪な文字が並んだが、しばらくすると整った字になっていった。右腕もどんどん太くなっていった。
エレン、という男の子は、私の腕を見るなり歓声を上げた。まるで誰かの腕を切り取って貼り付けたみたいだ、と言うので、そうだよ、と言うと少しだけ怖がった。
「おい馬鹿やってないでとっとと掃除しろ」
「私の武勇伝を聞かせてたんだよ。私がいかにして兵長を守ったかってのをね」
しまった、と思った。彼にとっていかにこの話が触れてはいけないことだったのかを長い間忘れていた。何も知らないエレンは私と彼の漂う異様な空気に気づかないようだった。それをいち早く気付いたのはペトラだった。
「え、エレン!悪いんだけど、こっち手伝ってくれない?」
「あっはい」
去っていくエレンの背中を見ながら、私もぜひ誰かに用事を言いつけられないかなあと周りを掃除している皆に目配せをするのだが、皆入ってはいけない空気を察しているらしく、誰もこちらを見ようとしなかった。しかも悪いことに、彼は私をその場から連れ出した。
「別に頼んだ訳じゃねえ」彼は井戸の縁に腰を掛けて胸糞悪そうに言った。
「そうだね」
「俺はお前より強い」
「そうだね」
でも、貴方は誰よりも弱い心を持っているじゃないか。弱い心を無理やり自分で傷つけては、強くしようと必死になっているじゃないか。仲間を死ぬ事には悪いけれどもう慣れた。飽和点を突破した。けれど貴方はいつまでたっても慣れない。そうやって眉間に皺を寄せて湧き上がる怒りを虚しさを全て巨人にぶつけている。ずっとそうでは疲れてしまうでしょう。休みたくなってしまうでしょう。だから私は貴方の傘になりたいのだ。少しでも雨宿りをさせてあげたいのだ。雨が止む前にまた血生臭い戦場へ貴方は行ってしまうけれど。
彼は黙りこんでしまった。またいつのものように去っていくのだろうと思ったのだが、しばらくしてちらりと私の右腕を見た後、自分の左手を見ながら重々しく口を開いた。
「……普通結婚すると夫婦は左手の薬指に指輪をはめるらしい。そんなんで繋がった気になるっていうのは馬鹿らしいな」
「うん?……あー女からしたら結構嬉しいんじゃない?指輪を見て、彼も同じように指輪を見て自分の事を思ってくれてるのかなあなんて思いを馳せてるのってよく分からないけどわくわくするし幸せだと思う。あと、もし向こうが死んだとしても指輪を見ては悲しみにくれたり、過去の幸せを思い出したりってのも悪くはない、かもね」
「そうか」
俺には分からない、と呟きながら、彼の目線が私の左肩に動く。そこで私はああとなった。いきなり話を変えたので安心していたが、まだ彼の中では先程の話題が続いているのだ。貴方はなんて面倒くさい男なのだろう。
「あっでも、そういう物なしじゃ安心できないというのは駄目かもしんないね。本当に愛し合っているなら、そんなもの必要ないし」
「人はそういう生き物だろ」
「待って、あなたは矛盾している。だってさっき」
言いかけて、言うのをやめた。そう、人はそういう生き物だ。矛盾だらけ、謎だらけ。追求したところで得られるものは何もない。ただ、得られるとしたら、言葉にできぬもどかしさだ。分かるようで分からない、分からないようで分かる。彼が分からないと言ったのは、きっとそういう感情の事なのだろう。そして、私が今するべき事は追い詰めるのではなく、安心させる事。私は笑顔を作るためのすべての筋肉を使って、笑みを作った。
「私は、指輪とかそんなのはいらない。欲しくない。私は、伴侶も好きな人もいらない。そういったものに縋る気はない。私は兵士だ。守るべきものがたくさんある。それに順位をつけてしまう事は私という兵士にとっては失格だと、いつも思う。私は好きな人が出来ると、その人だけを追いかけてしまうから」
そう言いながら、彼と私が恋仲であった時の事を思い出した。あの時の私は、彼に死んで欲しくなくて、また私も死にたくなくて、彼に「兵士をやめて一緒に暮らそう」とまで言ってのけた。何のために兵士になったのかをすっかり忘れていた。それならば付き合えない、彼が縋る私の手を振り払ったのは遠い昔であるのに、今の事のように思えてしまう。それから私は彼に悟られぬよう必死で気のない素振りをして、いつだって彼を守る事ばかり考えている。つまり先程の言葉は、大嘘だ。
「だから、もうあの頃の私とは違うんだよ」
これも嘘だ、何も成長していない。
「私はひとりで生きていける」
そう、貴方さえ生きていれば。
「お前の考えは正しいと思う。兵士として立派だ。けれど、俺は、ひとりでは生きていけない」
彼が腰を上げて、数歩先にいる私の方へ近づいてくる。私は期待と怒りが入り混じって動けないでいた。彼の腕が私の右手首を躊躇なく掴む。
「ずっと考えていた。俺はお前の腕がもげた時、」
「あっあのさ、この間手首捻ってまだ痛いんだよねえ」
出来るだけ顔を見ずに言い放つと、舌打ちと共に手首が離された。ほっとしながら手首をわざとらしくさすると、興が削がれたのか、また井戸の縁にどかっと腰を下ろした。機嫌が良くなってきたというのに、また機嫌を悪くしてしまった。皆には悪いが、私だって色々と必死なのだ。彼の密やかなアプローチを避けるのに。
「いつもお前はそうやってはぐらかすな」
「はぐらかしてなんかいないよ。ただ面倒なだけ。選んだ選択肢を、しかもとうの昔選んだものを今もこうやってぐちぐち小言を言われるのは誰だって面倒だよ」
「自分の選択した奴は正しいと思うか?」
「そんなの分からない。でも、それなりに満足している」
本当だった。そして続きを言うのを迷ったが、私は言うことにした。私だってたまには本音を言ってみたかった。それに加え、今、また人類は滅亡の危機に瀕している。最前戦にいる私たちの命はきっとそう長くはない。少しくらいワガママを言ってもいい気がした。
「私はリヴァイがこうやって目の前で私に愚痴を漏らしている今がとても愛おしい」
言った所で言わなければよかったと後悔した。貴方の事がまだ好きで仕方がない、と言っているようなもんだ。彼の答えにイエスと答えたも同然だ。それではいけない。私はあの時から傘になろうと決めたのに。
「だったらお前も絶対死ぬな」
「あっやっぱ訂正していい?私とか特定じゃなくて、リヴァイが誰かに、」
「死ぬな」
絞り出された声に私は何も言えなくなった。ああ、いつの間にか彼の体には私が染み付いてしまっている。当たり前だ。元々私達は恋人同士だったのだから。分かっていたことだ。ああ、どうすればいいのだろう、どうしたらよいのだろう。考えあぐねる私の鼻に雨が落ちる。空を見上げるやいなや、雨は一斉に降り注ぎ、全てのものを濡らしにかかる。雨が全ての汚れを洗い流してくれればいいのに。傘はいつの間にか壊れてしまった。いや、最初から傘なんぞ無かったのかもしれない。
The Ugly Umbrella