※不倫・不穏※
どうしようもなかった。一目惚れだとか、運命の人だとか、そんなくだらない話今まで信じてこなかった。いつだって今が楽しければ良くて、常に変化がある日常が好きだった。関係を持った男の数なんて高校2年の時に数えるのをやめた。とっても可愛いから男はいくらでも寄ってきて、自分から告白したことなんて一度もなかった。援交だってやったことがあるし、成人してからは不倫だって何回もしたことがある。でも親や周りにばれたことは一度もない。自分で言うのもあれだけれど、可愛いだけじゃなくて頭だってとっても良かったから。どんだけ馬鹿みたいに遊んでも自分にとって不利になるようなことは絶対にしなかったし、そんな痕跡は確実に消してきた。一応体裁だけは守ってきたつもり。「可愛くて勉強もスポーツも家事も出来て言うことなしの娘さん」それがあたし。けれど、あの人を見た瞬間、積み上げてきた何かは一瞬で消え去った。体裁なんてくだらないものは気にせず、矜持すらも捨てて、彼が欲しいと思った。彼があたしだけを求めるなら、あたしも彼だけを求めようと思った。ありきたりな言葉を使って言うなら、文字通り、恋に落ちたのだ。左手の薬指にピカピカの銀色を光らせる、彼に。
***
「甘利はねえ、愛妻家だから」神永さんはそう言って休憩室であたしが渡したコーヒーを啜った。神永さんと彼は同期で、中学からの長い付き合いだという。神永さんもかっこよくて、好みの、遊び慣れた顔をしていた。もし彼と出会っていなかったら関係を持っていただろう。でも、今は彼がいる。他の男はどうでも良かった。神永さんは大切な情報源。それだけだ。彼のことが少しでも知れるというならコーヒーだってなんだって入れてやる。マシーンのボタンを押すだけだけど。
「前は俺と同じで相当遊んでたんだけどさあ、うちの研究部門の子、あ、今の奥さんね、と出会ってからは他の女の子たちとの関係はすっぱり縁切って、もう猪突猛進的な?あっちは全然そんな気なかったていうのに、毎日のように研究所の方に通って、ひたすらアピールアピールアピールの嵐。適当にあしらってた奥さんの方もいよいよ根負けしてゴールイン。ほんとあの時の甘利は凄かったなあ。あ、結婚式の写真見る?」
スマホに映し出されるのは、身を純白な服で包んだ男女。奥さんはとびっきり可愛いわけでもなく、かといって醜悪というわけでもなかった。平凡な輪郭に平凡なパーツが収まっているだけ。それでも彼女が輝いて見えるのは、彼が愛おしそうに彼女のことを見つめているから。結婚したのは3年前だという。それより早くあたしが会社に入っていれば、ここに映っていたのはあたしだったのかもしれないのだ。いや、絶対あたしだった。あたしだったら彼を邪険にしないし、彼の告白を素直に受け止めるだろう。彼を手に入れた彼女が心底羨ましく、恨めしい。あたしの気持ちを察したのか、神永さんはスマホを胸ポケットにしまって左手をひらひらと見せた。どの指にも装飾はなかった。
「残念だったね。俺にしとく?」
「いえ、間に合ってます」
笑顔ですっぱり断ると、神永さんは苦笑いをした。そのまま休憩室から出ようとすると「愛だけじゃどうにもならないこともあるってのに」と呟く声が聞こえた。自分に向けられた言葉だと思いムッとしながら足早に立ち去る。その時、何にも知らなかったのだ。彼を取り巻くいろんなものが腐敗していっていることに。
***
「**ちゃん、クロスワードパズル好きなんだって?」
「え?あ、はい!どうして知ってるんですか?」
「課長から聞いたんだ。俺も好きなんだよね」
「本当ですか!じゃあ仲間ですね!」
恥ずかしそうな顔をした後、すぐ声色を変えて嬉しそうに答える。全て嘘だ。彼がクロスワードパズルを好きだと知っていた。だから趣味のひとつにした。そしていろんな人にそれとなくそのことを広めた。張り巡らされた罠に彼は見事かかってくれたのだ。
「普段どんなのやってるの」
「私がやってるのは、このアプリのなんですけど」
「へえアプリなんてあるんだ。いつも紙媒体だから」
「アナログですね」
「おじさんだからね」
ふわりと微笑む顔がとても素敵で、それだけで満たされた気分になった。スマホを覗き込んできた時に香った男物の香水に胸が高鳴る。
「まだ全然おじさんなんかじゃないですよ」
「**ちゃんと俺、10近く違うのに?」
「甘利さん、素敵ですもん。全然気にならない」
彼の左手の指輪さえなければ何もかも完璧なのにと思う。ペン立てにあるカッターで薬指を切り落とすことが出来たらどんなに清々しいだろう。渦巻く思いを押し込めながら笑顔を貼り付ける。
それから彼とはちょこちょこクロスワードパズルで話すようになって、でもそれ以上の進展はなかった。隙がたくさんあるように見えて、彼はいつだって隙を見せなかった。今まで遊んできた経験があるから、それを交わすのもきっとお手の物なのだ。それでも彼と会話ができた日は手帳に丸をつけてしまうほど嬉しかった。些細なことで一喜一憂していたあたしに転機が訪れたのは、入社した翌年の、6月だった。あの時は大雨が降っていた。
「甘利さん、すみません」
「良いって良いって。ケータイあって良かったね」
「はい」
課の飲み会の帰り道、スマホを店のトイレに置き忘れたことを思い出したので戻ろうとした。それに気付いた彼が「飲み屋街だから」と一緒に戻ってくれた。終電も差し迫っていて、良いと言ったのに彼はついてきてくれ、スマホを忘れた自分に内心ガッツポーズした。同時にあたしらしくないな、とも思う。いつもならこんなことをしてくれても恐縮なんてしない。当たり前でしょう、あたし可愛いんだからって、そう思ってたはずだ。彼を目の前にするとあたしはウブな女の子みたいに縮こまってしまう。ウブな時代なんて自分には1秒足りともなかったはずなのに、本当に笑える。
「あっ甘利さん、電車行っちゃいますよ!走らないと!」
あたしにはまだもう1本後があった。名残惜しいけれど、今日はお別れだ。家では彼の愛しの奥さんが待っているのだから。未だに奥さんに対して嫉妬心は十二分にあった。でも、彼が愛しているなら仕方ないか、とも思うようになっていた。彼には常に幸せでいて欲しい。そう心の底から思っていた。急かすと彼はのんびりとした様子で歩きながら「うん」と笑った。
「もっと早く歩かないと!ほら、早く!」
彼の腕を掴んで引っ張る。彼の傘が傾いてあたしに雫がかかる。雨が目に少し入りそうになって反射的に目を瞑る。唇になにかが当たる。目を開く。眼前には彼の顔があった。握っていた傘が重力に従って地面に落ちる。
「甘利さん?」
「電車行っちゃったね。ホテルに泊まるしかないかなあ。**ちゃんの方はまだあるんだっけ?」
「なにを、」
彼は愛妻家だ。お昼はいつも奥さんが作ってくれたお弁当を嬉しそうに食べている。飲み会は終電までには絶対に帰るし、女の子の誘いも一切受けない。2年前、アメリカに半年単身で行った時も浮気はしなかったらしい。子どもは3人欲しいんだなんて惚気てはみんなに小突かれている。そう、彼は愛妻家なのだ。誰が認める難攻不落の愛妻家。そして、あたしの好きな人。
もう一度キスされそうになって、思わず後ずさった。雨が容赦なくあたしを打つ。
「甘利さんの奥さん、車持ってましたよね。わざわざホテルに泊まらなくても」
あたしはパニックになって先程の会話を続けようとした。
「うん、でももう寝てるだろうから。彼女、寝るの早いんだ」
「甘利さんの為なら迎えに来てれますよ」
「どうかなあ」
濡れちゃってるよ、彼が再び近付いてきてあたしを傘に入れてくれる。お礼を言わなければいけないのに、うまく言葉が出てこない。
「**ちゃんは俺とこういうことをずっとしたかったんじゃないの?」
「私は、」
「他の男は良いけど、俺は嫌?俺のこと好きなのに?」
「他の男?」
「営業部長の白井さんって分かるかな。部長、**ちゃんが高校生の頃を知ってるって言ってたよ」
目を見開いて、彼を見る。初めて異性を怖いと思った。なにを考えているのか、全く分からなかった。あんなに分かりやすい彼であったのに、今の彼からは何の感情も読み取れない。どういう意味で言っているんだろう。ううん、きっと彼は全てを知っている。そして、今、彼は都合の良い女として望んでくれている。それで良いじゃないか。何を今更躊躇しているのだろう。これまでしてきたこととなにも、変わらない。
キスをされる、今度はしっかりと。彼の背中に腕を回して、それに答える。電車の発射音が雨音混じりに聞こえたけれど、彼の激しいキスにそれらは溶けて消えていった。
***
それから彼と定期的に夜を過ごすようになった。場所は街の外れにある安いラブホテルで、たった数時間の関係だった。そこで初めて愛する人とする喜びを知った。こんなにも幸せな気持ちになれるのだと知った。彼は決して結婚指輪を外そうとはしなかった。行為中、薄明かりでそれが光る度胸がじりじり痛んで、でも最終的にはそれすらも快感だった。みんなが愛妻家だともてはやす彼は、十歳近く離れた女と獣みたいなセックスをしている。結婚してからどんな女にも振り向かなかった彼を手に入れたあたしはやっぱり凄いのだ。彼と会う度に知らず知らずに広がっていく傷口を優越感や自尊心で埋めなければこの関係を続けられる自信がなかった。だって、彼があたしを愛してくれることはあり得ないって確信していたから。
***
ある日、いつものように人気のないところで待ち合わせていると、神永さんを見かけた。神永さんも誰かを待っているようで、時計を何度も見ていた。待ち合わせならもっと分かりやすい場所がある。神永さんがこんな場所を選んだってことは、つまりそういうことで、どんな女が現れるんだろうと好奇心から物陰に身を潜める。現れたのは普通の女だった。向こうも仕事帰りのようで、2人は会うや否や軽いキスをした。それだけを見ればただの恋人の逢瀬だ。けれども彼女の左薬指に光る指輪を見逃さなかった。そして、彼女を前にどこかで見た気がした。思い出そうとして、はっとする。彼女は、彼の。物陰から飛び出そうになるのを誰かが止める。振り返れば彼がいた。
「甘利さん、あの人って」
「うん」
「うん、じゃなくて!」
だって、彼はあんなに奥さんのことを愛してるじゃないか。彼から毎日溢れんばかりの愛をもらってるくせに。こんなの、ひどい。ひどすぎる。彼と関係を持っていることを棚に上げてあたしは憤る。今すぐ駆け寄って繋いだ手を引き裂きたい。彼はそれを許さない。
「甘利さん……!」
「大丈夫だよ、行こう」
彼はあたしの肩を引き寄せて微笑む。その力は強く、逆らうことができなかった。
いつものように彼と数回して、ベッドで微睡む。彼の太い腕を枕にするのが好きだった。彼は特別なにも変わらず、あたしの頭に顔を寄せている。
「甘利さんは、奥さんのこと愛してますか?」
返ってくる答えは既に知っていた。何回も尋ねた経験がある。しかし、もしかしたら今日は違うかもしれないと思った。奥さんのことはもう愛してなくて愛しているのは君だけだよ、と言ってくれるんじゃないかって思ってしまった。そしたら奥さんと別れて欲しいって言うつもりだった。
「勿論。誰よりも愛している。彼女は俺の大事な人だ」
「それならどうして」
「ただ、彼女の気持ちは遠くに離れて行ってしまった。もう俺の元に帰ってくることはないだろうね」
それは神永さんの話?そう思っているのを悟ったのだろう。彼は、違うよと笑った。
「ある男の話をしようか。半年間ある男はアメリカに行くことになった。妻についてきて欲しかったけれど、彼女にも仕事があるということでひとりで行くことになった。その時、彼女は妊娠していたんだ。元々彼女は生理不順でね、数ヶ月来ないなんて日常茶飯事で、自分の中に赤ちゃんがいるなんて思いもしなかった。ある真夜中、彼女は腹痛とは違う激しい痛みに襲われてトイレに駆け込んだ。そこで何かが彼女の中から落ちた。白い塊のようなもので、よくよく見るとそれは人の形をしているように見えて、怖くなった彼女は親しい男友達に電話したんだ。駆けつけた男友達は何が起きたかを悟り医者に連絡した。調べてみたら9週目だった。彼女はその後詳しく検査を受けることになって、そこで子どもができにくい身体だということが分かった。彼女は悩んだ。旦那に伝えるかどうかを。旦那は子どもをそれはそれは楽しみにしていた。自分はその待望の子どもを殺してしまい、そして今後できる可能性も大変低い。旦那は自分のことを惜しみなく愛してくれていて、悲しませたくなかった。子どもを産むことで彼にやっと愛を返せるって思ってたんだ。彼女はどうか言わないでほしいと周りに頼み込んだ。……だからこの話を旦那は今でも知らないことになっていて、旦那は子どもができるのを楽しみに待っている」
彼は淡々と喋った。その話をあたしは呆然と聞いていた。いつのまにか瞳から涙が溢れ出ていた。
「泣いてくれるの?それは旦那が可哀想だから?それとも女として彼女に同情した?」
「甘利さんが、平気な顔をして、そんな話をしていることに」
彼はへにゃりと笑った。何にも知らないことになっているんだ。仕方ないだろうって。
「彼女は旦那が浮気しても仕方ないと思ってる。子どもがいつまで経ってもできないんだからね。それよりも、もし知られてしまったらどうしようって毎日恐ろしい気持ちでいる。そんな彼女が何かに救いを求めなきゃ生きていけないってことくらい、分かってる。だから旦那は何も知らない振りをしている。だって彼女を心の底から愛してるんだ。なり損なった子どもなんかより、ずっとずっと」
子どもなんかいらない。彼女さえ居てくれれば良い。けれども、旦那が欲しいと強く望んでみせてしまったばかりに、彼女はその枷にとらわれてしまっている。法的に12週間経っていなければ人として認められないと定まったとしていても、彼女は間違いなく一度母になった。便器の中で死んだ子どもを見てしまった。でもそれを自分の身体のせいで死なせてしまったなんて旦那には申し訳なくてどうしても言えない。
彼女の方から旦那に別れなんて告げられるわけがない。過不足なく愛を与えてくれている旦那になんの汚点も一切ないのだから。
「ねえ、**。旦那はどうするべきだったと思う?」
泣きじゃくるあたしを優しい声色で宥めながら彼は言った。深く傷ついているはずなのに、彼は自分のことで無いように言い続ける。彼が辛いのだと言って涙を流してくれればいくらでも慰めの言葉を与えて愛で満たしてあげるのに、彼自身がそれを許さない。
あたしも彼も、誰もが羨むものほとんど全てを持っている。そして愛する人がそばにいてくれる。その人のためなら全てを投げ出してでも自分の命さえも厭わない。けれど、愛だけじゃどうにもならないこともある。
ああ、ここはまるで生き地獄だ。修復がつかないところまで壊れて腐っていってしまっている。誰も悪くないのに、真実を隠して生きている。本当なんてひとつもないのに、その刹那的な心地よさに身を委ねてしまっている。
愛してるからこそ、この地獄から抜け出す術を誰もがまだ持てないでいるのだ。全てを終わらせる言葉を。
/ディープエラー/
Moonlight, 米津玄師