バーにいる田崎 第3週目の金曜日の夜、本当はお酒はそんなに得意じゃないのに、私はながらく通っているバーに行く。そのバーは地下にあって、下る階段も分かる人にしか分からない場所にある。女の先輩に二次会後連れてこられなければ一生気付かず通り過ぎていたに違いない。そんな隠れた場所にあって、知る人ぞ知るという感じなのに一見さんお断りとかではなく、オーナーもとても優しい。オレンジ色の仄かな灯りに照らされた狭い店内に身を寄せ合いさざめきのように話しをするお客さんたち。年齢はバラバラでひとりで訪れる人が多いはずなのに人々は旧友のように互いを扱う。勿論ひとりでのんびりお酒を飲んで帰る人もいる。私も最初はそうだったのだけれど、最近はあの人に会いたくて必ず第3週の金曜日はここに足を運んでいる。
「ああ、こんばんは」
「こ、こんばんは」
今日はいつもより混んでいた。立ったまま会話をしている人もいる。それなのにカウンターの席に座る田崎さんの横はまるで魔法がかかってるみたいに空席だった。田崎さんが「どうぞ」と目で自分の横を勧めてくれるのでお言葉に甘える。本来予約はできない決まり。オーナーも田崎さんも何も言わないけれど、きっと私のために席を空けておいてくれるのだ。決まった時に来る人にはこうやってオーナーや常連さんが気を利かせてくれる。このバーの一員として認められている気がしてとても嬉しかった。
「今日はいつもより遅かったね」
両手を重ねて顎を載せたままで、田崎さんは尋ねてきた。香るエキゾチックな匂いが、ここは異世界なんじゃないかしらと気にさせる。
「一回家に帰ってたんです。荷物が届くから」
「わざわざ?家が近いのかな」
切れ長の目が少し大きく開かれる。その仕草にどきりとしながら首を振った。
「そうじゃないんですけど。その、まあ、ここが好きなので」
だって、あなたがここに来るのは第3週目の金曜日、だけじゃないですか、という言葉はそっと飲み込んだ。
「らしいぞ、福本」
「それは良かった。飯は食べてきたのか」
カウンターの向こうにいるオーナーに田崎さんは親しげに声をかけた。
「あ、軽く食べてきたんですけど、お腹ちょっと空いてます」
「じゃあハマチの刺身を出してやろう。良いやつが手に入ったからな」
「ハマチ大好きです、ありがとうございます!」
オーナーは表情に乏しい人で、最初はなにを考えているか分からず怖かったけれど、いまはなぜか母親みたいに感じている。以前そのことを言ったら田崎さんが「同級生たちの中ではね、福本のあだ名はおかんだったんだ」と笑っていた。想像していたより快活に笑うので、私はますます彼に惹かれてしまった。加えてそうやって彼のことを少しずつ知っていくのが楽しかった。ここでは、皆、外で何をやっているかを積極的に話す人が少なかったから、例外なく田崎さんが普段何をしている人なのか全く知らなかったのだ。
しばらくしてハマチの刺身と徳利が目の前に置かれる。オーナーは洋食も和食もなんでも得意で、酒のつまみ以外のものもよく作ってくれた。
「今日は徳島の鳴門鯛大吟醸と香川のオリーブハマチだ」
「なるほど、四国ぜめですね」
お猪口にお酒を入れようとすると、田崎さんが入れてくれたので慌てて頭を下げる。その姿が面白かったのか、切れ長の目が緩やかな弧を描いた。
「あ、ちょっと辛口ですね」
「苦手だったか?」
「いいえ、美味しいです、こう、すごい綺麗な味がします。お酒に綺麗っておかしいかもしんないけど」
「***さんは本当にいつも面白い言い方をするよね」
「感想をうまく言える人を尊敬します」
ハマチのお刺身もとても美味しかった。程よい噛み応えとさっぱりとした味。お酒に良く合った。そして2合あけたあたりで私の記憶は綺麗さっぱり消え去った。
*** 次に目が覚めた時、自分がどこにいるか全く分からなかった。
モデルルームで寝入ってしまったのかと思うほどの、紺を基調とした清潔で綺麗な部屋のベッドの上でこれは夢なのかもしれないとほっぺをつねってみる。普通に痛かった。昨日着ていた服のままのはずなのに、やけに胸元がすっきりしている。胸を触るとブラジャーが無かった。ではどこに、と周りを見る。すると、枕元にタオルがあり、その隙間から私の黄色のブラの紐が……。そこでやっと事態のまずさに気付き、寝癖でボサボサになった頭を抱えた。
「えっ?いやそんなまさかまさかまさか。これは夢に決まってる。ていうかそもそもあの人の家じゃないかもしれないし、でもだったらここはどこの家なんだっていう話で、私は一体」
ひとまず何時だろう。サイドテーブルに自分のピンクのスマホを見つけたので、ボタンを押す。そこには不在着信が2件溜まっていたが、無視して時間を確認する。
「午前9時11分」
そこで時間が分かったところでなんなんだという話である。というか、今日は何かあった気がする。
「あ!歯医者!これ絶対歯医者の番号だ」
予定を思い出して青ざめているとまた歯医者から電話がかかってきてしまった。反射的に出ると、受付の女の人が今日の治療はキャンセルかどうか尋ねられる。
「本当は行きたかったんですけど、その、今から行って診てもらうことはできますか?あ、ほんとですか?じゃあ行きます、よろしくお願いします!えーと」
そこであることに気付く。今の場所がどこか分からないのに何分後に行けるかなんて言えるわけがない。ハンズフリーにして地図アプリを開く。アプリが指し示す場所を見ると自分は全然知らないマンションにいるようだった。地名は分かったので、あと30分後には行けると勢いで言ってしまった。受付の人のイラつきを感じてしまってちょっと怖かったのだ。
電話を終えて、昨日のことを思い出そうと熟考する。カバンもすぐそばにあって、中身のものも大丈夫そうだったので、この家から出てしまっても良いけれど問題は家主だ。願わくば家主が既にいないことを願う。そしてその相手が田崎さんであることも願う。 しかし、もしわけのわからない人でAVとかそういう類のことを言われてしまったらどうしよう。部屋の扉は簡単に開きそうなのに開けるのが怖くて、扉に背を向けてベッドの上に体育座りする。
しばらくそうやっていると、笑い声が聞こえた。振り返ると扉が少し開いていて、田崎さんの顔が覗いている。
「た、田崎さん!よかったあ!田崎さんのお家で本当に良かった!ここがAVの撮影会場で昨日散々いやらしい動画を撮られまくってて逃げ切れず身売りされてしまうんじゃないかって絶望してたところで」
「相変わらず凄い想像力だね」
田崎さんは、ハハッと心底可笑しそうに笑った。服装はいつもみたいにきちっとしたスーツではなくて、だるっとした部屋着みたいなものでこれはこれで素敵だなと思う。いつのまにか追加されている口元の生々しそうな傷もワイルドな感じで大変良い。しかし見惚れてる場合ではない。
「あの!色々迷惑かけたのは分かってるんですけど今度穴埋めするんで今日は帰らせてもらっていいですか?親知らずを抜かなきゃならんのです」
「親知らずを?今日?」
「はい、嫌だ嫌だと思ってここまで来たので本当にそろそろ」
田崎さんと会えた次の日なら頑張れる気がして今日予約を入れたのだ。じゃあまた!と去ろうとすると、田崎さんが私を引き止めた。
「連絡先、知らないから」
「えっあっそうですね」
ずっと聞きたくて聞けなかった連絡先を手に入れて、ドキドキしながらその場を去る。
そして親知らずをいざ抜かんという時に、自分は想像以上、もはや誰もが未知数なほどに失態を犯してしまったことに気付いて悲鳴を上げ、治療をしていた歯医者さんに怒られてしまったのだった。
***「はい。一応洗っておいたから」
「ありがとうございます」
指定されたお店で、情けない気持ちになりながらどこかのブランドの袋を受け取る。付き合ってもいない男から自分の下着(しかも洗濯済み)を渡される間抜けな女など、世界中どこを探しても私しかいないだろう。笑みを崩さない田崎さんはやはりジェントルマンだ。今日は4週目の金曜日で、普通なら会えないはずなのに。どうやっても素直に喜ぶ気持ちにはなれない。
「本当に先日はすみませんでした、傷大分良くなりました?」
「うん、気にしないで欲しい、かな」
あの日、でろんでろんに酔っ払った私を田崎さんは送ってくれようとした。住所を知らないため尋ねたが、まともな回答は得られず仕方なしに財布を探ろうとしたところ「盗っ人め!」だとかなんとか叫んだ私にぶん殴られたらしい。その衝撃のせいで1万超する徳利は無残に割れたのだと、あの後バーに謝りに行った際知った。(震える手で渡した諭吉はオーナーに突っ返された。と同時に「気をつけろ」というよく分からない忠告をもらった。)ワイルドだなんて思った傷跡は私自身の仕業だったのだ!それだけでも死にたくなるというのに、あろうことか私は「田崎さんの家に連れて行って欲しい」とほざいたという。優しい田崎さんはその言葉通りに自分の家に連れ帰り、私をベッドに寝かせ自身はソファで一夜を過ごしたらしい。あまりにも恥ずかしくて詳しくは聞けなかったが、ブラは私がいつの間にやら外しそのままでは忍びないとタオルを被せてくれたみたいだった。
「私、日本酒で悪酔いする癖があって、気を付けるべきでした」
「いいよ、飲ませたのは俺だしさ。何飲む?」
「あっもう今日は本当に飲む気ないんで!これは遠慮とかじゃなくて、先週末抜いた親知らずの傷跡がめちゃ痛むんですよ」
「じゃあ食べ物もあんまり?」
「柔らかいものならなんとか」
「それは大変だね」
小さく眉をひそめる田崎さんに申し訳なさがますます募る。どこまで彼は優しさの塊で出来ているのだろう。
「田崎さんは好きなだけ食べてくださいね!諭吉たくさん召喚してきたんで!」
「うーん、女の子に奢られるの嫌かな」
出して見せた財布をやんわりと手で押し返される。そのまま手の表面をさらりと撫でられてドキリとした。いつもと様子が違うのは気のせいだろうか。それとも違う場所で会っているからそう感じてしまうのだろうか。
「そういえばさ、***さん俺の家に忘れ物もうひとつしていったの思い出したんだ。持ってくるの忘れちゃったんだけど」
「忘れ物ですか?」
彼の家を出る時、ピアスは両方あったし、時計もしていた。カバンにも財布と家の鍵とエチケット関連しか入れていなかったはずだ。私が小首を傾げていると、田崎さんは目を細めて笑った。
「俺も***さんのものか良く分からないから、家に来て確認してくれる?」
「あ、今度会う時で構いませんよ。多分そんなに重要なものじゃないし、ていうか何ですか?」
「なんとも言えなくて」
早く返してあげたいから、と語気を強めて言われたので気圧されて頷くと田崎さんは安心そうな顔をした。そのまま軽く物を食べると彼の家にすぐ行くことになった。
「お邪魔しまーす」
「忘れ物は俺の寝室だから。……わかるよね?」
「あっはい」
田崎さんがネクタイを抜きながら低い声で囁いてきたので心臓が口から飛び出す思いになった。急ぎ足で寝室に向かう。別にそういう仲じゃないのに、とても恥ずかしい。まるで今からそういうことをするみたいで。
電気をつけ寝室を見渡す。しかし、自分のものは見当たらない。ベッドはシワひとつなく田崎さんの几帳面さが伺えた。
「ベッドの隙間に落ちてるとか?」
いろんな角度から見ていると、田崎さんが部屋に入ってくる足音がした。振り返らないで言葉をかける。
「あ、田崎さん、見当たらないんですけど」
「おかしいな、あ、そこのサイドランプつけてくれる?」
「はい?」
田崎さんの言葉通り紐を引っ張った瞬間、部屋の電気がパチリと消された。え、となった時には、もう自分の体は柔らかいベッドの上にあった。薄暗い中、田崎さんのふたつの目が私の上で妖しく光っていた。
「田崎さん、忘れ物って」
「そう忘れ物。分かった?」
「え?いや、その」
田崎さんの親指が私の下唇を撫でたと思うと、そこにキスを落とされる。口をぽかんと開けたままだったので、舌がいともたやすく侵入して来て私の奥の傷跡に触れる。痛みを感じて彼の両肩を押すと田崎さんは喉を鳴らして笑った。
「***さんはいつも想像力豊かなのにこういうことには疎いね。俺とは嫌?」
「た、田崎さんと私は恋人とかじゃないし」
「でもいずれはなる、そうだろう」
肩から手を外させて私の指先を自分の口の端に持って行かせる。彼の、傷が、ある場所だ。
「女の子に殴られたのは初めての経験だったよ」
「田崎さん?」
身体が強張って全く動かない。蛇に睨まれた蛙のようだ。だとしたら、私はいつから狙われていたのだろう。オーナーのあの忠告はもしかして。再び顔が近付き、いつもの独特の香りがより強く鼻腔に広がる。
どちらにせよ、全てが、もう、遅かった。
未完成な恋のまま