「波多野くん、早いね」
フェンスに身を預け行き交う人々の群れをぼうっと見ている波多野に**が声をかけると、彼は一瞬眉を寄せた。しばらく沈黙が流れたあと、「***か!」と波多野が今更言うので、**は笑う。どうやら自分だと認識されなかったらしい。
「いつも髪の毛くくってるからわかんなかった?」
「それ、自分でやれるもんなんだな」
おそらく**の髪の毛がカールしていることを聞いているのだろう。正直言えばやったのは友人であり自分ではない。そういうのはわざわざ言うものではないと友人に念を押されたので「うん」と頷いておく。
「女子ってすげえわ。ていうか時間変更して悪かった」
「大丈夫大丈夫、気にしないで」
当初水族館は昼頃行く予定だった。しかし、昨日の夜に昼に用ができたと波多野から連絡があったのだ。だから夕方からにしてほしい、と。波多野と会う以外は特に予定がなかったので、二つ返事で了承した。とにかく波多野とこうやってメッセージをやり取りできるのが**は純粋にとても嬉しかった。あの夜、水族館に誘われたあと二人とも互いの連絡先を知らないことに気付き、慌ててLINEを交換した。きちんと登録できたかどうか気になったのか、**のスマホを波多野が横から覗き込んできたので心臓が縮み上がりそうだった。そもそも付き合ってもいない異性とこうして出かけるのは初めてだ。波多野はそうでもないのだろう。内心緊張している**とは対照的に落ち着いて見えた。
「飯は?」
「まだだけど、波多野くんは?」
「俺も。んじゃ先にどっかで食おうぜ」
「うん」
波多野がこの辺には詳しいというので**は彼の後ろを必死について行く。彼の歩幅は大きく、慣れないヒールなんかで来るべきではなかったと後悔する。いつもの履き古したスニーカーが恋しい。波多野は急ぎ足でついて来る**には気付いていないようだった。
連れて行かれたのは和食のお店だった。波多野は親子丼セットを、**は季節の天ぷらセットを頼んだ。粗雑そうに見えるのに、食べる前にきちんと手を合わせたり、箸づかいがとても綺麗だったり、彼のひとつひとつの行動全てが意外性を秘めていて、**はますます自分の心が彼に惹かれていくのを感じていた。料理はとても美味しいのに箸が進まず、一緒に食事を共にしているという状況だけでお腹がいっぱいになってしまいそうだ。
「そんなに腹減ってなかったのか」
「あ、違う!すごく美味しくて感動してたの!この茄子の天ぷらとか」
いらぬ心配をされぬよう笑顔を作りながら波多野の方に天ぷらを持ち上げて見せる。と、波多野の左手が伸びてきて**の右手を掴んだ。そのまま箸の先に口を近付け、そこそこ大きさのある茄子の天ぷらをばくりと食べた。
「ほんとだ、うめえ。今度来た時頼むか」
**は「波多野くん、行儀悪いよ」と言うので精一杯だった。けれども波多野は「目の前にうまそうなの見せる方が悪い」と悪びれもなく笑うから。
**はもうなんにも言えなくなって、目の前のものを食べきることに専念するしかなかった。