「ごめん、片付けるのに手間取っちゃって」
息を切らせるようにして**が突然自分の前、駐輪場に現れたので、波多野は数テンポ遅れて「……いや」と返した。そしてしまったと思う。また素っ気ない言葉を言ってしまった。どうにもいつものように喋ることができない。
そう後悔したのは束の間で、「あつ……」とうっすら汗が浮かぶうなじに彼女が手を伸ばしたのを見て人知れず気持ちが高揚した。高い位置で結ばれたポニーテールが揺れる。髪の毛の数本が彼女のうなじにひっついていて、それが気持ち悪いようだった。日はとうに暮れたといえ夏なので、夜もまだまだ蒸し暑い。しかし気温とは違う理由で波多野はTシャツの下に汗をじんわりとかいた。目線をそらしながら、自転車にまたがる。**はその様子に首を傾げた。いつもだったら波多野は自転車を押しながら彼女を送るのだ。
「悪ぃ、今日、ちょっと用があって急がねえといけねえんだ。後ろ、乗ってくれるか?」
「え!」
できるだけ自然に言えただろうか。サークルの女友達を乗せる時はなんてことない(むしろ勝手に乗られる)のに、好きな相手にはやはり緊張してしまう。そもそも**は汗臭い男の自転車の荷台に乗るようなタイプではなさそうだ。自分の邪な気持ちがバレていたらなんとなく嫌だと思った。好意を伝える前から嫌われたくない。もちろん今日用があるのは本当で、嘘ではなかった。甘利とその彼女の宅飲みに誘われているのだ。事情を色々と知っている二人からは「送ってからでいいから来てね(はあとまーく)」とさっきラインが来ていた。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
ラインの内容を思い返していると後ろが少し重くなり、思わず振り返りかける。しかし自分の顔が赤くなっている気がして、途中で止めた。気恥ずかしさを打ち消すためにグッとペダル強く踏み込むと、声をかけなかったせいか**はバランスを崩して波多野の腰に軽くしがみつく形になってしまう。突然感じられた体温に多野は身体を強張らせた。花のような香りが、波多野の鼻腔をくすぐる。女の、匂いだ。
「ごめん、二人乗りとかよくわかんなくて!」
「や、こっちこそ急だったから。悪いな」
慌てて離された身体が、手が惜しいと思う。甘利だったらなんでもないように腰に手を回すように諭すに違いない。波多野だって、後ろにいるのが**ではなければ、肩や腰を持つように言うだろう。意識してしまうと途端に言葉にできなくなる。仕方なしに今度は**の様子を伺いながら波多野は自転車をゆっくりと漕ぎ出した。
彼女の住んでいるアパートメントは自転車だと10分もかからない位置だ。歩いてもあっという間なので、今日なんて一瞬で終わるような気持ちになるだろう。それがなんとなく嫌で、自分でも気付かない内にいつもより口数が増えた。しかし、会話は弾まず、二言三言で終わってしまう。まるで花火が打ち上げられてすぐ消えてしまうみたいに。
次の話題を考えていると、珍しく**が先に話題を振ってきた。
「波多野くんはもう公務員で決まったんだよね」
「まあな、***はそのまま院に進むんだっけか」
「そうなんだけど文系で院に行く人なんてあんまりいないから変な焦りを感じてね。本命の院試も来年だから今は割とのんびりしてるし」
なんとかなるんじゃねえの、とは気軽に言えなかった。声色はどこか深刻げだったし、なによりそんなありきたりな言葉は誰でも言えることだった。何かもっと他の気の利いた台詞はないものか、と考えているうちに機会を逃す。いつもこの繰り返しだ。それでもべらべらと喋り立てるような男よりはマシだと思うので良しとする。男は寡黙であるべきだ、と波多野は思っていた。
「波多野くんとよく一緒にいる女の子も就職だよね」
「は!?」
急に斜め上の話を振られたので素っ頓狂な声が飛び出る。振り向くと**の顔が想像以上に近い場所にあり更に動揺する。
「まああいつも就職だけど……知り合いだっけか?」波多野は顔を正面に向けながら平常心を取り戻そうとした。
「えっあっ別に知り合いってわけじゃないんだけど。ほら彼女さんなのかなあと思って」
「はあ?!」
それはすぐに失敗に終わった。
一刻も早く誤解を解くべく、漕ぐのをやめ、両足を地面につけて今度は完全に身体を**の方へ向ける。
「あいつは甘利の彼女だから」
「あまり?」
「俺とよくいる背の高い、こう甘ったるい顔したやつ。知ってんだろ」
「う、うん?そういえばその女の子の他に誰かと歩いてた気がしてきたけどあんまり覚えてないや」
いつも、あ、波多野くんだ
って感じで見てたから。そうやって**が申し訳なさそうにへにゃりと笑うので、波多野はグッと唾を飲み込んだ。学内を歩いているだけでもおそろしく目立つ甘利のことは全く意識していないというのに、自分と歩いていた女学生は意識している。純粋に嬉しかった。もしかしたら彼女も少しは自分に気があるのかもしれない。
「なんか変なこと聞いちゃったみたいでごめんね?……あっていうかもうこの辺でいいよ」
「あ?ああ」
見ると**のアパートはすぐそこだった。荷台から降り、気恥ずかしさからか足早にこの場所から去ろうとする彼女の白い腕をとっさに掴む。せっかくのチャンスだ。逃すわけにはいかない。これを逃したら波多野と彼女は顔見知りという関係だけで終わるだろう。
「夏も終わるしさ、どっか行かねえか。ほら、この前言ってた水族館とか……」
ここで断られたら潔く諦めよう。**の顔をしっかりと見据えたまま、答えを待つ。彼女は目を右往左往させた後、軽く目を伏せ、「はい」と小さく呟いた。街灯に照らされた顔が赤く見えたのは、自分の勘違いじゃないといい。