「あ、波多野くん」
本を棚に戻し帰って来ると無人になったカウンターに見知った男が立っているのが見えたので、**は後ろから機嫌よく声をかけた。**は自分の大学の非常勤職員として働いている最中であり、波多野は同じ大学の同期生だった。利用者の顔を覚えることは滅多になかったのだが、波多野は**が図書館でバイトを始めた頃からの常連なので、今ではよく話すようになった。
波多野は**の顔を見ると、「よう」と軽く右手を挙げる。相変わらずなにやら小難しそうな洋書を持っているのを見て、**は「(雰囲気には似合わず本当に本が好きだなあ)」と心の中で苦笑した。だって、見るからに体育会系なのだ。(実際、中高はバスケ部で主戦力だったという。)洋書のことは専攻でとっていたフランス語しか分からないが、彼はロマンス系の小説をよく好む節があった。
「今回はちゃんと期限までに返してくださいね」
「はいよ」
「本当に反省してます?」
「原書だから時間かかんだって」
「訳書もあるんだからそっちを借りればいいのに」
「俺はあの“いかにも訳しました”ってのが苦手ってこの間言ったろ」
はいはい、と言いながら、手続きをした本を渡す。波多野はたまに思い出したかのように延滞をする。それは1日か2日程度で、別に気にするほどのものではない。もっとひどい学生もいる。しかし延滞した学生は大抵閉館中のみ開かれる返却ポストに返してくるので、「延滞したんだけど」と堂々とやってくる学生は少なかった。それが定期的に繰り返されるのだから、いやでも印象に残ってしまう。それに少し気圧される空気もあるので、最初は苦手だった。司書の人や他のバイトの人に話したところ、「そんな人来てる?」と言われてしまい、どうして自分が担当の時ばかり彼とエンカウントしてしまうのかと不思議に思うこともあった。仲良くなってからは、彼が来ると少し心が躍ってしまうようになってしまったが。
「今日も22時までか?」
「え?ああそうだね。波多野くん、今日も最後までいるの?」
「ああ。じゃあ、俺行くわ。……また、後でな」
小さく呟かれた最後の言葉に、自分の心臓が大きく跳ねたのが波多野に聞こえていないか**は心配になった。2年近く図書館のアルバイト生と学生利用者の関係を続けていたが、最近それが崩れつつあった。
4ヶ月前、大学の近くで不審者が出てから波多野がたまに送ってくれるようになったのだ。「ちょっと怖いんだよね」と言ったので気を使ってくれたのだろう。少し前に不審者は捕まったのだからもうそんな必要はない。(そもそも**の下宿先は大学から目と鼻の先だ。)けれど、波多野は何にも言わず送り続けてくれていた。それを単なる好意として受け取っていいのか**は悩んでいた。
波多野には仲のいい女の子がいて、この前もキャンパスで楽しげに歩いていたところを目撃したばかりだ。その時の波多野は屈託なく笑っていて、**は少し悲しくなった。だって自分といる時、彼はあまり笑わない。送ってくれるからといって、あんなに近い距離感で道を歩いたことがない。波多野が自転車を押しながら数歩先を行き、**は後ろをついていくだけだ。
やはり、淡い恋心を抱いているのは自分だけ。波多野的には鈍臭そうな図書館のアルバイトの子を親切心から送ってあげているのに過ぎないのだろう。去っていく丸い頭を見ながら、小さくため息をつく。同じ文学部の友人が見たらきっと笑っていただろう。恋煩いが過ぎる、と。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
けれど、それが当の本人に伝わることはない。いっそ伝わってしまえば良いのに思う。来年の春、彼も**も卒業してしまうのだから。