「僕の曾祖父の話です。平民の家に生まれた彼は、誰に似たかは分かりませんが、幼い頃から容姿と才覚ともに優れていて、みなに神童として可愛がられていました。賢すぎるばかりに、彼は、心のどこかで、猫可愛がりする大人たちを馬鹿にし、同年代の子どもを見下していたそうです。世の中の大半がつまらなく思え、友人も積極的に作ろうとしませんでした。自分たちの手に負えない子であると早々に悟った夫妻は、彼の噂を聞きつけたある華族の養子に出す事を決めました。
彼が七つの時です。その華族は男の子の跡継ぎに恵まれず困っていたそうで、というのも当時爵位を継げるのは男だけと決められていたからなのですが、とにもかくにも、顔立ちが良くそして聡い子が欲しかったようですね。彼は養父の言われるままに、ある学校に進みました。その学校は華族のものであれば、高等科まで無試験で進学する事ができたのです。新しい環境に彼も最初は面白みを感じていたそうですが、元来、血筋や権力などに興味がなかった彼に、もとは華族のために作られた学び舎は合わず、彼は帝国大に進む事を決めました。これも無試験で入学が許可されました。無論、彼の頭であれば、易々と満点を取っていた事でしょう。
成長するにつれてますます彼は厭世観が強くなっていきましたが、そんな彼にも唯一無二の存在がいました。その華族の一人娘です。彼女も彼と同様に賢い女性で、けれども彼とは異なり、彼女は愛に溢れた人でした。相反した者同士だったからこそ、互いは惹かれあったのでしょう。家の手伝いの者たちが将来ふたりは結婚するかもしれないと噂するくらいには、仲睦まじかったそうです。彼女も彼と同じ帝国大に進む事を希望しましたが、父親が大学に行くなら女子大しか認めないと言ったそうで、彼女は結局そちらへ進学しました。
そんな折、才能を認められた曾祖父は官費留学生として欧州へ行く事が決まりました。小さい時から一緒に過ごしてきた彼女と別れる事は、彼にとっても辛い事でしたが、その代わり、帰ってきた暁には結婚をしようと彼女にだけこっそり告げました。しかし、それが叶う事はありませんでした。彼の留学中、彼女は自ら命を絶ちました。
後から知った事らしいのですが、彼女には、ふた回りも上の、親が決めた婚約者がいたそうで、曾祖父のいない間に祝言を挙げたそうです。どうやらその結婚生活が苦で自殺をしたそうです。金はあれども、男は大層評判の悪いものだったようで。彼が彼女に思いを告白した時、既に決まっていたはずなのに、彼女は何も言いませんでした。彼女がいない場所にもう用はないと見切りをつけた彼は帰国後、誰にも何にも伝えず自分の存在を消しました。死んだわけではありません。戸籍を捨て、違う男になったのです、いえ、誰でもない男になったという方が正しいのでしょうか。
彼はある学校に入り直し、卒業後、いくつかの仕事を国内でこなした後に、任務で欧州に再び赴きました。その頃には、彼女の事も、今までの事も遠い過去、もはや無かった事も同義と思えるくらいにはなっていたそうです。
ある日、道で曾祖父に声をかける者がいました。振り返ると、欧州の大学に通っている際に住んでいた学生寮で、部屋が隣だった男が立っていました。彼は人違いだと、昔の彼でしたら決してしないような笑顔で、その男に伝えました。男は聞く耳を持たず、黒い革の手帳から一枚の絵葉書を取り出して彼に渡しました。自分の部屋に間違えて届いたまま渡すのを忘れていた、と謝り、これも何かの縁だからと彼を飲みに誘いました。
やんわりと断りながら何気なく絵葉書を見て、彼は内心非常に驚いたそうです。狐につままれた気分で、呼び止める男の声も聞かず彼は踵を返してその場を去りました。自宅に戻り、絵葉書を改めて見て、彼は久方ぶりに、昔の記憶を思い出しました。それは死んだ彼女からの手紙でした。
日付は、彼が留学して丁度1カ月経ってから書かれたものらしく、そこには実は自分は結婚を強いられている事、本当に好いてくれているならば、留学先で見つけた絵葉書を、文などはいらないからできる限り送ってほしい、それを励みにして帰りを待っている、と綴られていたそうです。残念ながら曾祖父は留学中彼女に手紙を送った事は一切ありませんでした。自分たちの気持ちは物質に頼らずとも繋がっていると勝手に思っていたのです。
もし、自分がこの手紙を受け取り、葉書を送り続けていたならば彼女は生きていてくれたのだろうか、と彼は逡巡しましたが、すべては過ぎ去りし事。いくら考えようと、結局は何も変わりません。彼は、マッチを火につけその葉書を燃やしました。
けれども、もし、自分が自分として生きられる余生ができたとしたら、墓に一度は訪ねてみようとは考えていたそうです。それまでは、彼女の事はいままでのようにすっぱり忘れ、仕事に専念しようと、大事なものに鍵をかけるように、彼は記憶を心の奥底に再びしまい込みました。そうして、ひとまず欧州での任期を終え、上司への報告の帰りに曾祖父はその地で列車事故に合いました。強い衝撃と共にあたりは一瞬深い闇に包まれて、目を開けて彼が見たものは、自分の右胸に突き刺さる鉄の杭でした」
三好さんはそこまで話すと、満足したかのように、にこりと笑った。
「それで、ひいお祖父さんはどうなったんですか?助かったんですよね?」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって、じゃないと、三好さんはここにはいないだろうし、そもそもひいお祖父さんのお話も誰かに語られる事はないから」
「普通に考えるとそうですね」
「ひいお祖父さんは助かって、それで、その思い人の墓に行く事ができたんですよね。で、違う方と結婚して、三好さんのお祖父さんが生まれて」
なんとなしに三好さんの年齢から色々逆算していると、彼は「細かい事はまあいいじゃないですか」と指を折る私の手を止めた。
「それでですね」
「はい?」
彼はバックパックから二冊のフォトアルバムを取り出し、手渡してきた。どちらも分厚く、ずしりと重い。開くと、たくさんの絵葉書が目に飛び込んでくる。有名な絵画のものもあれば、日本や世界各国のご当地の写真のものもあり、様々だ。最初の方なんかは、キャラクターものが混じっている。それらを見ていると、腹のうちからなにか熱いものがこみ上げてきそうになり、わけのわからない感情をぐっと押さえつけた。
「曾祖父の話を聞いてから、なんとなく気になって、様々な場所を訪れるたびに目についたものを集めてきたんですよ」
「凄いですね、コレクターの域では?」
「で、**さんにあげます」
「え?」
膝に抱えていたアルバムの一冊がどさりと地面に落ちる。慌てて拾い上げ、表紙を服の袖で軽く拭った。
「なんでですか?」
「あげたいからに決まってるじゃないですか」
「でもこれ三好さんが小さい頃からずっと集めてきたものなんですよね?宝物みたいなものを私が貰うわけにはいきませんよ」
「僕にはもう必要ないんです。約束は果たされました」
「約束?」
「そうだ、今日のも入れておかないと」
戸惑う私を気にしないで、三好さんは先ほど買っていたポストカードを袋から出し、No.2と書かれているアルバムの最後あたりのページに差し込んだ。それは、ゴーギャンの描いた、「肘掛け椅子のひまわり」だった。彼はそれをひと撫でした後、アルバムを閉じて私にまた渡してくる。私はとうとう泣きたくなってしまった。
三好さんは自分の膝を抱えると、遠い方を見て、「曾祖父はね、きちんと一度も彼女に愛を伝えた事はなかったんですよ」と呟いた。
「それは私が彼女だと嫌ですね。結局死を選んでしまったんですし」
「そうです、だから僕は違う」
「違う?」
振り返った三好さんの唇が私の唇にあたる。
「好きですよ」
「……そういう事ですか」
「驚かなくなりましたね。少しつまらない」
「三好さんの考える事、大体分かってきました」
「別に返事なんかはいらないんです。そりゃあ貰えたら嬉しいけれど。どうせ今日も”ひとまずこのままの関係でいましょう”と伝えるつもりだったのでは?」
「うーん」
図星だったので、首をかきながら目線を逸らす。三好さんはふっと鼻で笑い「寒いから行きましょう」と立ち上がった。私もアルバムを抱えながら立ち上がる。彼が手を伸ばす前に敷かれていたハンカチを掴み、自分のバックにしまい込む。私が洗いますからねという無言の訴えのつもりだ。彼はそんな私の姿を見て何か言うのを諦めたようだった。
「本当はそれを今日渡すつもりはなかったんですよ。でも今日の二人の椅子の絵を見てなんだか考えが変わりました。相手が死んでからでは遅いな、と」
「物騒な事言わないでください」
「万物はいずれ死にます、遅かれ早かれ」
あっさりした物言いに、この人・人生何回目なのかしらとつい思ってしまう。
「じゃあ、私も早めのうちに言っておきます」
「何を」
「三好さんが好きだって事です」
三好さんの目が大きく開かれて、そして嬉しそうに細められた。彼の前ではしおらしいけれど、本来の私はおてんば娘で有名なのだ。よし、言ってやったぞと鼻息を荒くしていると、彼はくしゃっと笑って、私をそっと抱き寄せた。
「思ったよりずいぶん早い」
「私もまだまだ言う気はなかったんですよ、でもいま言いたくなったんです。よく分からないんですけど、このアルバムを抱えていると不思議な気分になってきて、こんな大切なもの貰えるわけないと思っているのに、返したくない気持ちがむくむくと」
「そうですか。いい傾向だと思います」
なんの傾向?と聞く前に、顔が近づいてきたので、自然と目を閉じる。胸に抱きこんだアルバムが太陽にあたためられ、まるで生きてるかのようだ。彼の気持ちが決して嘘ではないのだと、なぜだが確信している自分がいた。