休日、という事もあって、美術館の中は人でごった返していた。はぐれないように、と手を引きかけた三好さんの申し出を断る。今日は、ひとりで見たい気分だった。彼が横にいると、落ち着かない気がしたのだ。

「せっかくですけど、絵を見るペースは人それぞれだから個別に見ませんか」

 申し訳ない気持ちで伝えると、三好さんも納得したような顔をして、「ではショップのところで落ち合いましょう」と言った。思った通り、彼の方がひとつひとつの絵に対して時間をかけて見ているようで、最初の方は彼がどこにいるか認識していたけれど、気が付くと彼の頭はどこにも見えなくなっていた。

 人の流れに押されるようにして、足を進める。第3章のフロアにきたところで、人の塊が目立つようになった。今回は、ゴッホが自ら最高傑作だと謳った「収穫」と、そして日本では初めてのお目見えになる、ゴーギャンの「収穫」が展示されているのだ。ふたつの、ふたりの収穫。ゴッホの収穫は、学校の美術の教科書で幾度となく見てきた。南仏の、四季折々の光景に魅せられていった彼は、黄色をモチーフとした色彩豊富な作品を作るようになる。この「収穫」で目立つのは、やはり黄金色だ。あたり一面に広がる小麦畑を、明瞭とした青い空が優しく包み込んでいる。空気が澄んでいる事が見て取れた。後ろの青白い山脈は、ラ・クロ山脈だっただろうか。金色の中に存在する青い荷車が一段と目を引く。その右には小さな、赤い荷車が描かれており、中央をより一層引き立てている。遠くからでも、その絵は瑞々しく、太陽の光を今まさに浴びているかのように輝いて見えた。アルルの豊かな情景に感動した彼の感動が、激情が溢れんばかりにそこに表現されている。
 ゴーギャンの「収穫」は、葡萄の収穫時を絵にしたものだった。前景に描かれた女たちは、実際にはそこに存在しない。現実と記憶を融合したこの絵を、ゴッホはいたく絶賛し、今後の彼の作品作りに大きく影響した。
 しかし、12月、あの有名な「耳切り事件」が起こり、去る事を決意しつつあったゴーギャンは、ついにアルルの地を去ってしまう。同居生活はわずか2ヶ月で終わりを告げたのだ。もともと、ゴッホには精神障害のきらいがあり、滞在の最後の頃、ますますそれが顕著になった。そんな中、描かれたのが、先ほど見た「ゴーギャンの椅子」だという。今回展示にはないが、対となる作品「ゴッホの椅子」が作成されているはずだ。ゴーギャンを匂わせるものを描く事によって、彼がそこに居て寝食を共にしたのだという事が強調されている気がした。椅子の上にある、蝋燭がどこか物悲しい。
 晩年、ゴーギャンはひまわりをモチーフにした作品を残している。今回の最後の展示画は「肘掛けの椅子のひまわり」で締めくくられていた。わざわざ種を取り寄せてまで描いたというこの作品。一体どんな思いで作り上げたのだろう。再会を果たす事のできなかった彼らが、絵を通じて再び出会えたような、そんな気分にさせられた。

 このままショップに行くには勿体なく思え、折角なら三好さんを待とうと思った。後ろの方でぼうっと見つめていると、横に立つ人影がある。邪魔になっているのかと、身を退けようとしたら、腕を軽く掴まれた。見上げると、見知った顔がある。男はにこりと笑う。

「待たせましたか」
「あ、いえ、そんなに」
「それなら良かった」

 三好さんは絵画に目を向け、押し黙った。ショップの方から聞こえてくる騒めきが遠くに聞こえる。静寂な時間が流れ、彼の息遣いがすぐそこに感じられた。指が私の脈を探るように蠢き、少しくすぐたかった。

 しばらくして、満足したのか、三好さんの目が私の方に向けられて、「行きましょう」という。来た時と同じように、指を絡められる。羞恥を感じながらも私は頷いた。

「人、凄かったですね」
「図録、重くありませんか?」
「大丈夫です」

 美術館を出て、来た道を戻る。さっきは気付かなかったけれど、赤や黄に染まった木々が美しかった。この後の予定はない。駅まで行ったら別れるだろう。であれば、そろそろ伝えなければ、と心に決め、私は立ち止まった。

「み、三好さん、この間の、事なんですけど」
「ああ、だったら、どこか座れる場所に行きましょう」

 噴水の前にあるベンチは人でそこそこ埋まっており、「こっちの方が人が少ないから」と三好さんに手を引かれる。やってきたのは木陰だった。西日を遮るようにして、葉が生い茂っている。芝生の上に腰を下ろすように言われたので、そのまま座ろうとすると、彼が可笑しそうにポケットからギンガムチェックのハンカチを取り出してさっと敷いてくれた。なるほど、これが出来る男のやる事なのか。納得しながら、自分も鞄の中に手を伸ばす。

「すみません、あ、私のハンカチ」
「僕は気にしません」
「だったら私だって」
「じゃあ半分こにしましょう」

 ハンカチはそんなに大きいわけではないので、座ると自然と体がくっついてしまう。なるべく接さないように身を動かしていると、三好さんが私の肩に腕を回し自分の顔をこちらへ寄せてきた。突然の事に悲鳴を軽く漏らすと、肩を抱いたまま、彼が顔を上げて私を見た。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。

「おんなじです」
「なにがですか?」
「別に何も」

 三好さんが私の肩口に頭を乗せてきてしまい、これじゃあすっかりカップルではないか!と狼狽しながらも当初の目的を思い出す。そう言わなきゃ、言わないと。

「それでですね、あのですね」
「**さん、その前に昔話をしましょう」

 私たちの間を、鋭く冷たい風が吹き抜ける。髪が乱れる事を気にしないで、三好さんはまた私を見た。普通の日本人に比べて色素の薄い瞳に映る私は、私のようで、私ではない誰かにも見えた。木漏れ日が私たちを優しく照らす。まるで、ここに私たち以外誰もいないかのように。
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