先輩がこの春卒業する。進学先は京都だという。私には彼がこの学校を去る前にどうしても伝えたいことがあった。
「珍しいね。君が俺に勝負を仕掛けてくるなんて」
「そうですか」
「そういえば部長になったんだって?おめでとう」
「ありがとうございます」
「今日は」
「ちょっと黙ってください。集中できません」
「これは失礼」
先輩が肩をすくめて笑うのが視界の端で見えたが、私は気にせず盤上を食い入るように見つめ、次の一手の為に普段の倍以上の速さで脳みそをフル回転した。それでもきっと彼の思考の一部にも満たないものであろう。
「よく考えたら、***と将棋をするのは初めてじゃないか」
「だから集中できないんですけど」
「別に何かを賭けた勝負ではないのだろうから、もっと気軽にやろう。もう君と話すのはおそらくこれで最後になるだろうしな」
先輩はそうなのだろう。私は違う。私は自分の全てをこの勝負に懸けている。彼は聡いから、きっと分かっているに違いない。この無謀な挑みを申し込んだ時点で、私は彼の手のひらの上で踊っているのだ。腹が立つ。そういう意味を込めて顔をしかめると、彼は今度は嬉しそうに喉を鳴らした。
「***とやった記憶が全くないっていうのに、何故か将棋部のイメージは***が大半なんだ。何でだろうね」
「…それは先輩が私の先輩や同輩などと対戦している時に毎回傍にいたからじゃないですか」
「そうだったかな?」
「ええ、私は先輩の将棋に惚れ込んでいましたから」
「へえ。***もお世辞が言えるぐらいに成長してたのか」
「お世辞じゃありません。私は嘘が嫌いです」
運動部に所属していると思えないくらい細い腕が、盤上に伸び、洗練された動きで駒をパチリと盤上に置く。ああ、その音でさえも美しい。私はすかさず横の机に置いてあるわら半紙と先の潰れた鉛筆を手に取り、彼の一手を丁寧な字で書き込んだ。こんなにも綺麗な棋譜が描けるというのに、なぜ彼はそれを趣味に留めてしまうのだろうか。彼の思考は一体どこにあるのだろう。
「***はいつから将棋を始めたんだ?」
「聞いて意味がありますか」
「意味がなくてはならないのか?」
「小学6年生の秋からです」
パチリ、私が奏でる音がそれを示していた。先輩は驚いたようで、盤上には目もくれず私を見つめた。
「まだ3年もやってないのか。いわゆる天才だな」
「誰がですか。天才は先輩じゃないですか」
「本当に最後まで可愛げがない。きっかけは?」
林檎の皮をむくように自分が丸裸にされていくようだ。他人に中身を見られるのは好きではない。でも先輩の言葉には抗えない何かがあって、私は逆らう事ができない。
「あなたです」
「うん?」
「赤司先輩、あなたが私に将棋を教えてくれました」
私は出会って初めて先輩の顔をきちんと見た。彼は思い当たる節が全くないのか、思案するように腕を組んで目線を窓に向けていた為、お互いの目がかち合うことはなかった。
「帝光中に進学しようと決めて、中3の秋、文化祭に来た時に先輩を“ここ”で見ました。将棋を指すあなたはとても美しくて、私はあなたの将棋をもっと見たいと思った。だから将棋部に入部して、先輩がバスケ部員だと聞かされた時はとても吃驚しました。ですが先輩は暇があるとここに来てくれたので、嬉しかったです」
「ああ、今思い出した。確かに俺が将棋部の部長と対戦している時に身動きひとつせず俺を見ていた変な小学生がいたよ。顔は思い出せないが***だったとは」
「私は先輩の将棋を目指していました。そして到達した暁にはあなたと勝負するつもりでした」
「つもりっていう事は、今の対戦は何なんだ?」
痛い所をついてくる。先輩は盤上をあれから見ていなかった筈なのに、最初からそこに決めていたかのようにまたパチリと駒を指し、私の駒を奪った。目線が交わりそうになり、思わず目をそらす。やはり彼と面と向かって向き合える訳がない。小さく身震いをして、怖い、と思った。そう、彼があまりにも美しすぎる故に、怖いのだ。完全な美が在る筈がないのに、彼を見ているとそのような錯覚に陥る。
「何なんでしょうね。私が勝ったらお教えしますよ」
「それは面白い。俺に勝てるとでも?」
「逆に先輩は自分が負けるという可能性を考えたことはないのですか」
「ないね。俺が負ける事は絶対に有り得ない」
「人も人が生み出すものも、絶対は有り得ません。かならず何処かは不完全です。欠けている」
「俺は一回も負けた事がないよ」
「ではいつかは負けます」
私が言い切ると、先輩は口を閉じ喋らなくなった。互いが駒を指す音と私が棋譜に書き写す鉛筆の音と息遣い、それだけがこの世界の音の全てだった。幸せだった。
何十分かして、私はおかしい事に気付いた。けれど、そんな筈はないと決め付けて勝負を続ける。膝の上に置いた左手が汗ばんで、無意識にスカートでそれを拭う。言い知れない淡い期待が浮かんでは消えた。
「王手、です」
私が言い放つと、先輩は参りました、と軽くお辞儀をした。確信する。勘違いではなかったのだ。立ち上がり、盤上の駒を全て払い落とした。手を抜かれた。悔しい、悔しい!屈辱感と憤怒と少しの悲しみが私の体すべてを駆け巡る。
「こんな勝ちは認めません!」
「俺の負けだ」
「認めない!」
「さて色々と教えてもらわなければ。君は何の為に俺に対戦を申し込んだ?」
いつの間にか先輩が私の横に立っていて、私を見下ろしていた。背筋が粟立ち、後ろにゆっくり一歩下がるとそれを見逃さなかった彼は、私の肩を掴み自分の方に引き寄せた。彼は私の耳に口を寄せ、囁きかける。
「俺に初めて負けを教えてくれた君が次に教えてくれるのは、何?」
燃えるような赤い双眼はあの時から私を捉えて放さない。
その愛を見せてごらんtitle/ lie of about 30