れんあい【恋愛】
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
中学生の時に、友人たちの間で「国語辞典の比較ごっこ」というものが流行った。その中で、とても印象的だった辞典が、この新明解国語辞典(第五版)だった。どうしても手元に置いておきたくて、国語辞典を持っているのにも関わらず、親にねだって買ってもらったのを思い出す。その頃からずっと使っているためもうヨレヨレだ。受験期にこぼした紅茶のシミが何ページにもわたってついている。
ベッドにごろんと転がり、今度は、【愛】のページに移動してみた。なんじゅっかいも読んできたので、殆ど覚えている。なんだかいけない気持ちになりながら、「私たちもいつかこんな風に思える人が現れるのかな」と図書室の隅で友人とこそこそと話していた昔が懐かしい。私がいま抱いている気持ちはこの辞書に書かれている【恋愛】や【恋】と似ている気がするし、違う気がする。そして【愛】からは程遠い。わからない、が正解に近いだろう。だって、彼とはあまりにもなにもかもが唐突すぎるのだ。
「時間が欲しい」と言ってから一ヶ月が経った。気温はますます降下し、北海道ではもう雪が降っているという。なぜだか最近同じ夢を見る。目覚めてしまえば、それがどんな夢かは忘れるのに、同じだという感覚だけが残る。そうしてどうしようもなく寂しくなってしまい、猫に助けを求めるのだけれども、べたべたされるのが嫌いな彼は、うにゃあと嫌そうな声を上げて腕からすり抜けてしまうのだ。あの人と会う前の日常が本来の日常であったはずなのに、あの人の片鱗が感じられない毎日は、とても味気ない。ぱっと現れて、私の人生にこんなに大きくかつ短時間のうちに介入してきた人物は彼の他にいない。私は、どちらかといえば、人間関係は、じっくりと構築していくタイプなのだ。
大体、彼は本当に私が好きなのだろうか。今更ながらに、経理課の女の子の「D課の野郎はね、女をどうやって落とすしか考えてないのよ、だから落ちたらそれで終わり。しかも何日で物にできるか賭け事までしてんの、あり得なくない?」という言葉が真実味を帯びてきている気がしてならない。私が「ハイ好きです」と言って、適当に何回かセックスをしてポイとされてしまったら、私はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。緊張はするけれど、彼と会うのは、楽しい。それがなくなるのは嫌だった。
「約束してたゴッホとゴーギャン展、誘ってみようと思うんだけど」
「おっ奥手ガールがそろそろ本気を出すってわけ」
「そうじゃなくて、約束してたのに勝手に一人で行くのは悪いし」
「むしろ家まで行ってセックスなしなんて。三好さん実は童貞かもよ」
あり得ない事をぬかさないで、という気持ちを込めて睨みつつ、送ろうと思っているラインの文面を見せる。もとはといえば、彼女が合コンに参加してればこんな事に悩まずに済んだのだ。
「客観的に見てどう思う?」
「え!固すぎでしょ、こういうのはこうやって」
昨日の晩、2時間ほど悩んで書いた文章が一瞬で消えて、代わりに簡素な誘い文句がフリック音とともに生成される。さすがにこれは軽すぎでは、と文句を言う前に、送信ボタンが送られた。
「あ!」
「はい、終了」
「なんで送ったの、なんで!」
「はいはい、デザート食べよ」
運ばれてきた栗とチョコのムースケーキが口の中に突っ込まれる。そのおいしさに感動して、単純な私はしばらくその件について忘れる事にした。
「いいですよ」と返事が来たのは、次の日の朝だった。時間は、この間上野で待ち合わせた時と同じという事で、そんなのを覚えていない私はラインを遡る必要に迫られた。その際、今までしてきた会話が目に入って、心がムズムズした。
天気予報を見ると、その日は寒いらしいので、クローゼットからダブルボタンのコートを取り出して壁のフックに引っ掛けると、防虫剤の匂いが微かに香る。去年、ヴィンテージショップで一目惚れしたものだった。この触り心地が、とても気持ち良いのだ。
約束の日が来て、上野で電車を降り待ち合わせ場所に向かう。三好さんはもうそこにいて、人の往来をぼうっと眺めていた。彼も紺のコートを着込んでおり、とてもよく似合っていた。
「三好さん、お久しぶりです」
何回か躊躇した後、声をかけると、三好さんはゆっくりこちらへ顔を向け、一瞬はっとした顔をした。首を傾げると、彼は口の端を少しだけ持ち上げながら喋り出す。
「お久しぶりです。すっかり寒くなりましたね、そのコート、とても似合っていますよ」
「あ、ありがとうございます。……三好さんも」
行きましょうか、と手を差し出してきたものだから、反射的に右手を出しかけてしまった。恥ずかしい気持ちになりながら引っ込めようとすると、三好さんはおかしそうに笑いながら強い力で私の手を引く。その手はとてもひんやりとしていた。
美術館へ向かう途中、三好さんは一言も声を発さず、こちらへ振り返りもせず、ただひたすらに颯爽と歩いた。まるで、私の言葉なんて聞きたくないように。その後ろ姿を、昔も見たような気がして、これがデジャヴというやつなのだろうかとひとりごちた。