「お邪魔します」
「どうぞ」
三好さんのマンションは東京メトロ副都心線の近くにあった。というか、JR新宿駅まで歩いて10分かからないところだった。築2年の賃貸といっていたけれど、ひと月一体いくらするのだ。私の給料ではとても払いきれない額だろう。確かに自分が勤めている会社はビッグカンパニーだが、自分は末端の末端なので、普通のOLよりちょっと給料が良いくらいだ。
「前々から趣味の部屋を作りたくて、この部屋をシアタールームとして使ってるんですよ」
廊下にある左側の扉を指し示しながら、三好さんは言った。だとしたら右側は寝室に違いない。そういうデザイン性なのだろうが、壁も天井も、扉さえもなにもかもが白くて落ち着かない。シアタールームに入るよう勧められ、入ると部屋は既に暗く、カーテンは閉められていた。部屋の奥にスクリーンはなく、青い画面が壁に映し出されているので、おや、と思うと、三好さんが「壁に直接投影して見てるんですよ」と笑った。白い壁だったら、スクリーンがなくても十分に綺麗に見えるらしかった。
「でもプロジェクターって高そうですよね」
「そんな事ありませんよ、僕のは少し高めですが、数万で買えます。最近じゃ、3万円のとかありますよ。スクリーンも色々なタイプがあるんですけど、その中でお勧めなのはやはり自立式ですね。吊るすために工事をしたり天井に穴を開けたりしなくても済むんです」
「へえ!そうなんですね。私の寝室とかでも出来るのかなあ」
「十分できる広さだと思いますよ。壁も白でしたよね」
飲み物を取ってくるので、と部屋を出て行った三好さんに返事をしながら、置かれているソファに座ってみる。一見固そうに見えた深緑のソファは、座ってみると身を預けたくなるような座り心地だった。クッションからはかすかに三好さんのにおいがした。付き合ってもいない男の家に遊びに行くだなんて、大学生以来で緊張していたが(しかも2人きりなんて初めでだ)、ここまでなにもかもが美しく洗練されていると、なんだかモデルルームに遊びに来たようで、気持ちが少し高揚していく。サイドテーブルには、「ローマの休日(カラー)」と書かれた空のDVDケースが置かれていた。
「お待たせしました。勝手に紅茶にしたんですけど」
「この香り、葡萄ですか?」
「よく分かりましたね。貰いものなんですけど、ルピシアの山ぶどうティーです」
お盆には丸い銀の缶も一緒に乗っていて、三好さんはそれを見せてくれた。何が入っているか丁寧に説明を始める。まるでお店の人みたいだ。正直にそう感想を述べると、「大学時代、紅茶専門の店で働いていた癖が出ました」と少し照れ臭そうに笑った。
「**さんが熱心に聞いてくれるので、つい度が過ぎてしまって」
「大衆向けのものしか飲まないから知らないことばかりで面白くって。でも冬に出るあの甘い感じのやつ、好きです」
「キャロルとかホワイトクリスマス、とかですかね」
「そうそう!」
「僕も好きですよ。その時期が来たら一緒に飲みましょう。紅茶、保温ポットに入れてきたので、好きなように飲んでください。クッキーもどうぞ」
本当にお店に来た気持ちにさせられる。至れり尽くせりで、逆に恐縮してしまった。再び正直に伝えると、「お客様なんですからどうぞごゆっくり」と三好さんは はにかんだ。
「じゃあ、観ますか」
「はい!」
私が勢いよく返事をすると、三好さんはまたふっと笑いながら、リモコンに手を伸ばした。しばらくして、懐かしい、軽やかな音楽が流れ出す。古めかしい字で「ROMAN Holiday」というタイトルが現れ、綺麗なドレスを着た彼女が出てくる頃には、私の心はもうローマ一色に染まりきっていた。
アン王女が美容室に入って髪を切るあたりで、肩に重みを感じたので見てみると、三好さんが目を瞑ってすっかり寝入ってしまっていた。私を迎えに来てくれた時、ちょっと疲れた様子だったので訳を聞いたら土曜も遅くまで仕事があったという。夕方までの予定もキャンセルして寝ていたと笑っていた。私はできるだけ体を動かさないように、自分に渡されていたブランケットを三好さんの肩にかけると、顔を前に戻して再び映画に意識を向けた。時折聞こえる控えめな寝息が、なぜか私の心を少しばかり乱れさせたのだった。
「すっかり寝てしまって。誘っておいて申し訳ないです」
「大丈夫ですよ!疲れていたんですよね」
映画の最後の最後で目を覚ました三好さんは、終わった後、あとの付いた頬を撫でながら、私に謝った。寝起きだからか、目が赤く、口調もいつもより舌足らずで、新鮮だ。
「重かったでしょう」
「いえ、そんな事は!三好さん、女性の方と同じくらい細いですし」
「女性と同じくらい……」
言葉選びを間違えたようで、三好さんは一瞬だけ眉をひそめてた。男の人だから、女だと揶揄されるのは嫌だったのかもしれない。慌てて次の言葉を探そうとすると、三好さんがいつもより低い声で私を呼んだ。
「**さん、前から思っていたんですけど、僕の事どう思っていますか」
「どうってそれはええとどういう意味」
「はぐらかして欲しくない質問なんですけどね」
逃げ腰になったのを見透かされたのか、両肩を掴まれて三好さんの方を向かされる。距離が近すぎて、動悸が激しくなっていく。彼の求めている答えが私にはどうしても分からなかった。彼の事は好きだけれども、そういう異性に対する好きとは違うのだ。どこか、懐かしくなるような、そんな気分にさせられる。思い浮かぶのは、美術館の帰り道に見せた寂しげな横顔と、この前のカフェで言ったあの一言。
「逆に三好さんは、私の事、」
「好きですよ、じゃないと家になんて誘いません」
あまりにもはっきりとした答えに、私はますます困惑した。今までこんな風にしっかりと異性から愛の言葉を贈られた事はない。ましてや、色男なんかに。言葉の、飾り気のないところが、彼の本心であると窺えて言葉に詰まる。
「私は、よく、分からなくて。初対面であんな失礼をしてしまったのは、三好さんが初めてだし、あの、嫌いとかじゃないんです、本当に、よく分からなくて」
「そうですか。ただ、僕の気持ちを知ってほしかったんです。分かっていないかもしれないから」
そうやって三好さんは眉を八の字に曲げて笑った。そこから微妙な空気が流れ、そのままお開きになった。送ると言った三好さんの申し出を玄関で断って、去ろうとすると、三好さんが私の名前を呼ぶ。
「キスを、してもいいですか」
「今更、許可を?」
三回目のキスは、短いものではなかった。慈愛の雨に睫毛を震わせながら、私は遠い昔を思った。私が生まれる、もっと前の。