「やばい、やばいよ……」
自分の服や髪型、化粧を何度も鏡の前で確認しながら壁時計を見る、という行為を一体何回繰り返したのだろう。服は同僚のチョイスだった。三好さんとこれこれこういう事があって、と相談したらなぜか向こうが妙に協力的になってしまい、服を買いに行こうと昨日連れ回されたのだ。さすが高いだけあって、発色が大変よろしい。値段の割に中々良い物を買えたと嬉しいけれど、それでもこれから彼に思うと胃が痛くなってしまった。
あの玄関先事件(どういう事件かは敢えて伏せておこう)が起きて約2週間。三好さんとは今週の金曜まで連絡を取っていなかった。なぜ今週の金曜になって連絡を取り合ったかというと、日曜日、すなわち今日、映画を見に行く約束を大分前にしていたのだ。
2日か3日にいっぺん、何かにつけて彼はコンタクトを取ってきてくれたので、事件以降プッツリ連絡が途絶えてしまい少し不安になった。(あの様子ならばすぐ連絡が来る気もしたので。)もしかしてあの後車にはねられてしまったんじゃないのかとか、体調を崩して寝込んでいるんじゃないのかとか、エトセトラ。部署に覗きに行く事も試みたが、実際普通に出勤していて、会う羽目になってしまったらこっちが困る。だって、どういう態度を取ればいいのかさっぱり分からない。だから、この約束がどうか彼の中で流れていてくれと願ってみたりした。
金曜日の定時を少し過ぎた頃、「日曜日は、10時半前に迎えに行きます」とラインが来た時は自分のデスクで悲鳴を上げてしまった。(その為同僚に質問攻めにああい、ショッピングに連れ回されたのである。)そうして、"迎えに行きます"というワードが気にかかり、恐ろしい気持ちを押し殺して聞いてみたところ、私の家まで迎えに来るそうで。そこから必死に粘ったのだが、結局私が「分かりました」と折れる事になった。
iPhoneのロック画面には三好さんの名前とともに"10時14分着で。"というコメントが表示されている。開く勇気はまだない。ただいまの時刻は10時25分をちょっと過ぎた頃。男の人であればもうそろそろ着くに違いない。動悸と眩暈がしてくる。誰かにああいう事をされるのは別に初めてではないけれども、付き合ってもいない男性にされるのは初めてだ。しかも超がつくイケメンだ。
「どうしよう、どうしよう。普通に挨拶とかできるかな」
私の雰囲気を察してか、飼い猫が身体を何度も擦り付けてくる。抱き上げてぎゅうっとすると、気分を害したのか去って行ってしまった。
と、チャイムが鳴る。ああ、それはまるで世紀末のラッパのようだ!
「凄い音しましたけど、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
あまりにも焦りすぎて、玄関に向かう途中ですっ転んでしまった。その音が聞こえたのだろう。三好さんは心配気な顔をしつつ、笑いをこらえている様子だった。一緒についてきた猫が警戒の声を発すると、彼は玄関先で身を屈めその頭を無理矢理撫でた。猫はそんな不意打ちに驚いて、後退り私の影に隠れてしまう。
「猫、触れるんですか」
「嫌いと言った覚えも、触れないと言った覚えもないですよ」
「そ、そうでしたね」
「お揃いですね」
「?」
屈んだまま三好さんがはにかみながら私を見てきたので、何の話だろうと見つめ返す。すると彼は私の方を指差して「服の色ですよ」と笑った。今日の服は、ミリタリー調のワンピースだ。よく見れば、彼もカーキー色のジャケットを羽織っている。(確か店員さんがオリーブ・グリーンと言っていたような)
「あっこれ昨日買ったばかりで、」
「今日のために?」
「はい、じゃなくて!ええと、友達がこういうの似合うんじゃないって勧められて買っただけというか」
「どちらにせよその服を見るのは僕が初めてというわけだ」
「そうなんですけどね、その」
私がしどろもどろになりながら言い訳じみた事を述べると、三好さんはますます笑った後「あまりからかい過ぎても良くないから」と立ち上がり、出発を促した。
「映画館は下高井戸駅近くですっけ」
「あ、そうです、歩いて数分のところにあるんです」
「じゃあナビは貴女に任せようかな」
「はは、そんなに入り組んでないですよ」
会話はポンポンと進んで行き、胸の動悸もいつの間にかおさまっていた。よくよく考えると三好さんにしたらあれくらい日常茶飯事でする事なのかもしれない。前ヨーロッパにいたと言っていたので、あまり気にしない方がよいのだろう。そちらの方がこちらも気持ちの整理がつく。今日は観たかった映画を観に行くのだし、もっとウキウキしてもいいのでは。気持ちの切り替えがとても早い私であるので、映画館に着く頃には今から見る映画で気分が高揚していた。
「三好さんはこういう小規模の映画館にはよく来ますか?」
「いいえ、あまり」
「大きいところより私小ぢんまりしたところの方が好きなんですよ。落ち着くというか。多分、祖父のせいかな、近くに古い映画館があってよく連れて行ってもらっていたので」
「おじいちゃんっ子でしたか」
「自覚はないけど、きっとそうだったんだと思います」
こういうところは席が自由で、チケットを買えば大抵整理券を渡される。その整理券の番号が何番なのかいつもワクワクしていたのを思い出す。そこはあんまり観に来る人がいなかったので、基本自分が1番で、たまにそれ以外の番号を渡されれば、1番で入っていく人を睨んだものだ。
今日観る映画は上映している映画館が少ないせいか、人が多く、15・16番だった。若いカップルだけではなく、高齢の夫婦もちらほら混ざっている。
「やはりカップルが多いですね」
「ラブロマンスですから。ローマの休日が作られたきっかけとも言われる、実話に基づいた話だとか」
「**さんも、一度は真実の口に手を入れてみたいと思った事があるのでは?」
「三好さんは?」
「入れてみましたけど、特に何も」
「行った事あるんですね!」
三好さんが右手を見せながら言ったので、彼がローマの街を颯爽と歩いている様を想像する。彫りが深いので、違和感は無いに等しいのだろう。
ローマの休日や、イタリアはどうだったかなどについて話していると、あっという間に上映時間になり、私達は沈黙した。
映画は、コミカルなテンポで進んで行き、ローマの休日を時折思い出しながら、私は楽しんだ。横に座る三好さんを、上映中一回見てみたけれど、表情はよく読めなかった。
「ローマの休日を観返したくなりましたね」
映画が終わり、昼食を食べようと近くのレストランに移動する。私の方が積極的に感想を言い、三好さんはそれに相槌を打つだけだった。
「恋愛映画、もしかしてそんなに得意ではありませんでした?付き合わせてしまったようなら」
「いえ、そんな事はありませんよ。ただ……」
「ただ?」
「好きになってはいけない人を好きになるというものは、とても苦しいものだな、と」
三好さんがやけに真剣な口調で言ったものだから、私は持っていたフォークを落としてしまった。給仕の人がやってきて新しいものに変えてくれた。
そういう経験があるのだろうか、聞いてみてもいいのだろうか。暫く考えて、余計な詮索は止めておくことにした。彼も流れる空気に気付き「すみません、気にしないでください」と曖昧に笑った。
「そういえばローマの休日、カラー版もあるって。ちょっと気になりません?」
「僕の友人がそういえば持っていたような。次の日曜の予定は?よかったら僕の家で観ませんか、小さいけれどシアタールームがあるんですよ」
「えっ本当ですか、観たい!次の日曜空いてます、全部!何時でも!」
興奮気味に答えると、手が緩みまたフォークを落としてしまう。給仕の人がまたかよコイツと顔で新しいのをくれた。精一杯申し訳ないという顔をしてそれを受け取る。
「本当に良いんですか?」
「その台詞を言うの、私の方な気が」
「まあ、そうですね。僕は15時くらいまで用があるので夕方になるのですが、良いですか?」
「三好さんに合わせますよ」
私の頭の中はカラー版のローマの休日で一杯で、その他の事は深く考えていなかった。
別れ際、家まで送ると言った三好さんをどうにかこうにかして断って、路線の違う彼を見送ろうとすると、彼がちょっと、と切符売り場の影に引っ張った。
彼の唇が私の唇に触れたのは一瞬だった。あの時より短いかもしれなかった。
「この間の事、忘れているようなので。次の日曜は**さんの家に車で迎えに行きます」
三好さんは気分良さげに改札を通り抜けていった。
あとから来る唇の感触を得ながら私はもしかしてとんでもない事を約束してしまったのではと駅のホームで赤面した。というか名前、いつの間に!