「どこかに、出かけるのか」

 波多野の声に、まずいところを見つかったと、**は表情を固くして、ゆっくりと振り返った。彼は、内心動揺したけれども、それを悟らせるような事は決してしなかった。気怠げな目が、いかにも興味が無いといった様子で、上から下、下から上と、動く。ほんの一瞬であったが、彼女には長い時間だった。

「結城中佐に頼まれて、少し」
「少しっていう格好じゃないだろ。そんなんで買い物に行く気なのか」
「婦人の集まりに呼ばれたもので……。なんでも、結城中佐に協力している方々らしくって」

 ふうん、とまた波多野の視線が彼女に注がれる。いつもは化粧っ気のない、**の顔が、うっすらと色づいていた。控えめではあるが、肌はきちんと化粧水やクリームなどで整えられているさまが見て取れ、薄い眉は、黒く強調されている。頬も、血色良く見えるよう染まっていた。(おそらくその半分は、自然に染まったもの、つまりは恥ずかしさゆえだ。) 本来桃色だった唇も、血のように紅い。きつく適当に結われていた長い髪は、いま若い女性に流行っている髪型になっていた。着ている服も、藍色の小綺麗なワンピースだった。腰辺りには革のベルトが通され、彼女の線の細さを強調している。普段質素な服を着て皆の世話をしている**からは想像もつかない装いだった。

「あの、あんまり見ないでください。自分でも似合わないって、分かってるんです」

 見定められるような瞳に、**はとうとういたたまれくなって、自分の両肩を抱きながら顔を背けてしまった。羞恥で耳も真っ赤になっている。あまり表情を表に出さない印象があったので、波多野は女らしい彼女の態度を面白く思った。しかし、同時に、彼女が着飾ってどこかへ出掛けてしまう事に関しては面白くないな、と感じた。女性の化粧や服装に対して自粛が続く中、こんな格好で行かなければならない集まりだ。どんな場かは大体察しがつく。女と寝る事しか考えていない、軽薄そうな男も参加しているだろう。

「**さん、迎えに来ましたわよ」
「まあ、その服とても素敵」
「あ、千賀さん、和子さん」

 気をつけた方が良い、と一言助言しておくべきか悩んでいると、目の前の道に、一台の車が停まった。すると、中から、**より更に派手な化粧をし、高そうな服を着込んだ2人の若い女性が降りてきて、小鳥がさえずるような声で彼女に声を掛けた。どうやら彼女たちと連れたって行くらしい。

「じゃあ、波多野さん、行ってきます」
「ああ」

 たまの息抜きなのだから、水を差すような事は言わない方が良いかもしれない。結局、波多野はなんともいえない気持ちで、車に乗り込む彼女を見送った。


「波多野さん、みんなが待ってますよ」
「今日は、そういう気分じゃねえから」

 食堂で安酒を飲んでいると、実井が中々来ない波多野を呼びに来た。実井は理由を深く聞こうとはせず、「そうですか、では」とその場を去ろうとして、ふと気付く。この時間には必ずここにいるはずの人物がいないのだ。

「そういえば**さんはどこに?」
「出掛けてったよ」
「なるほど、それで」

 機嫌がよろしくないんですね、とは口に出して実井は言わなかったが、浮かべた笑みで何が言いたいかは波多野には分かった。波多野がグラスに口をつけて軽く睨むと、実井は肩を軽くすくめて食堂から出て行った。そのまま調理場の方に目を向ける。気配は残っているのに、やはり彼女はおらず、波多野は自分のらしくなさを感じながらぐいっと一気にグラスの中身を煽った。


 浅く眠っていたらしい、物音に目を覚ます。意識はすぐはっきりとしたものになった。机に置いたままになっていた空のグラスに誰かの手が伸びる。波多野が反射的にその腕を掴むと、相手は驚き小さな悲鳴を上げた。見上げると**がいた。

「波多野さん、起きていらしたんですか」

 壁の時計に目やりながら、波多野はあれからそれほど時間が経っていない事を知った。

「もう帰ってきたのか」
「なんか嫌になっちゃったから…」

 綺麗に塗られていたはずの口紅は、こすれた跡があり、口の端からはみ出していた。目も充血している。新品だったはずのワンピースの肩口が大きく裂けて、白い肩が露出していた。きっと集まりで男と何かあったのだ。やはり気を付けるようよく言っておくべきだったと波多野は後悔した。

 自分の身に何かあった事に波多野が気付いてしまった事を悟り、**はその話題に触れられないよう、片手に持っていたジュースの瓶を波多野に見せた。

「見てください、集まりで出されてたフルーツジュース、こっそり持って帰ってきたんですよ。一緒に飲みませんか」

 そんな子ども騙しが通じるような年齢ではない。波多野は、**が詮索を嫌がっている事を知りながら、ジュースを机の上に置いて、腕は掴んだままで席を立った。

「何かされたんだろ」
「別に、何も。ほんの少し、男の人に絡まれただけで」

 波多野から距離を取ろうと**が身じろぐと、煙草の臭いが微かに香る。行く前はしなかった臭いだ。彼女の瞳はまるで恐ろしいものを見てきたかのように強張っている。誰かが、彼女にいやらしく触れ、そうして眼前の赤い唇に口付けたのだ。波多野は、自分の大切なものが汚された気になった。自分や他の者の為に賢明に真面目に働く彼女が、下賤なものに弄ばれかけたのかと思うといても立ってもいられなくなり、気が付いた時には、彼は彼女の唇に噛み付いていた。

 何回か頭の中で思い描いた通り、**の唇は柔らかく、瑞々しい。紅独特の味がしたが、気にせず、何度も味わう。驚きによって開かれた口に、自分の舌をねじ込むと、彼女は歯を合わせ、逃げようとした。

 しかし、彼の舌を噛むほどの度胸は彼女にはなかった。先ほどは気にせず噛んで逃げたのだけれども、相手が見知らぬ男だったからだ。密かに想いを寄せる人物に、そんな事をやれる訳がなかった。

 波多野は、自分が今まさにやっている事は、集まりにいた男とほぼ同様である事は理解していた。けれども、機会さえあれば摘もうとしていた花を、外部の者に好き勝手に摘まれて黙っているような人間でもなかった。それならば、自分の手によって打ち消してしまえば良いのだ。

 震える**の腰を、空いた手で力強く引き寄せた後、腕を開放してやり、そのまま己の手を彼女の小さい顎に当てた。少しでも顔を逸らせようとすれば、力を入れてそれを制した。弾力のある唇を時折食みながら、彼女の歯列や硬口蓋を自身の舌でなぞり、口内で逃げ惑う舌を吸うと、彼女は耐えるように身体に力を込めた。自分がやりたいように口付けてきたあの野蛮人とはまるで違っている。恐怖もあったが、**は間違いなく心地よさを感じていた。

 長い接吻が終わり、口と口が離れると、透明の糸が引く。波多野の表情はいつもと大差ない、しかし、彼の瞳からは熱情と劣情が感じられた。彼は気にする素振りも見せずに、今度は**の首に自分の唇を近付けた。ここまできて途中で止める気はなかった。彼女が泣いて嫌がれば、別ではあるが。

「ま、待って、ここでは……ここでは、嫌です」

 **は自分がなんてはしたない事を口にしてしまったのだろうと己を恥じた。首を柔く噛んでいた波多野が思いもよらぬ言葉に顔を上げて、彼女の瞳の奥に潜む真意を覗こうとする。彼女もいくらか自分を望んでいるのだと分かると、口の端を上げてまた彼女の唇に口付けた。今度は重ねるだけの、やさしいものだった。


 初めて踏み入れた**の自室の寝具に、彼女をゆっくりと横たえると、波多野はその上に被さった。他の機関員と比べて小さいと思っていた身体は、充分彼女の身体を覆い隠せるほどだった。彼は上の服をとうに脱いでおり、均整の取れた逞しい裸体は、彼女の本能を昂ぶらせる。

 波多野は片手で**の胸元の釦を外し、白の下着を顕わにした。鎖骨に舌を這わせながら、肩紐をずらすと、彼女の、控えめな乳房が顔を出す。胸のてっぺんを、彼は赤子がするかのように何度も吸った。彼女は肩で大きく息をしながら、彼から与えられる刺激をひたすらに享受していた。なにもかも初めてで、なにが正解なのか分からなかったのだ。

 とうとう波多野の手が、**のスカートの中に伸び、ショーツの隙間から指を差し入れた。そこはあたたかく湿っており、解してやれば彼を受け入れられそうだった。ずっと身動きをしなかった彼女も、さすがに恥ずかしいのか不安げに彼の名を呼んだ。指を中に一本突き入れながら、恐がらなくて良いとでも言うように、彼は口を合わせた。拒むような事はもうしなかった。口付けが激しくなるのと比例して、下に入る指が増やされ、内部を緩く掻き回す。陰毛に隠れた上の部分も押してやると、気持ちいいのか、彼女はくぐもった声を出した。それに気を良くした波多野はますますそこを強く刺激した。

「ひ、あ……!」

 唇を離すと、か細い嬌声が室内に小さく響く。**らしい、喘ぎ声だった。その声は波多野を静かに興奮させた。ズボンの中の性器はもう充分に熱を孕んでおり、彼女の中に一刻も早くうずめたい気持ちだった。

「もう、入れるからな」

 しばらくして、男性のものが入るくらいには濡れそぼった**の性器から指を抜き、耳元で波多野がそう囁くと、赤くなった顔をますます赤くさせて彼女は弱々しく頷いた。

「いっ!」
「息を止めると余計痛いぜ、普通に呼吸してみろ」

 内壁を押し広げながら入ってくる異物の痛みに対して顔を歪めると、波多野は**の額に自身の額をつけて優しい口調で諭す。彼女は言われた通り呼吸をしようとした。しかし、腹の下の違和感が拭えず、思わずぎゅっと腰に力を入れてしまう。狭い膣道が更にせばまり、彼の性器を締め付けた。彼はそのまま快感に身を任せて突き入れたい衝動に駆られたが、もう一度丁寧な口調で「落ち着け、大丈夫だ」と彼女の目尻に浮かぶ涙を吸いながら言った。

 すべて入ったものの、予想以上に彼女の中は狭く、小さかったため、波多野は**を気遣い、緩慢な抽送をするだけに終わってしまった。彼女の方は、果てるまでは出来なかったけれども、胸の内は充足感に溢れていた。彼の二の腕に頭を乗せて余韻に浸っている彼女に、服を汚してしまった事を彼が謝ると、彼女は薄目を開けて微笑しながら眠そうな声で言った。

「良いんです、どうせもう着ませんから。それに肩のところが破れているし」
「俺が新しいのを買ってやるよ」

 返事はなく、静かな寝息が代わりに返ってくる。波多野は**を起こさぬようにそっと自分の腕を抜きながら身を起こし、床に放られていたシャツを拾い着込んだ。まだ男たちは街にいるはずだろうから合流しよう。そう考えていた。

 部屋を出る際、彼女が寝ている寝具の方をもう一度見やる。目が覚めた時、自分はいない方が良い。夢か何かだと思って欲しいと願った。どうせ自分は彼女を幸せにすることなんぞ出来やしないのだ。

 波多野は花園の扉を閉めきると、未練などは感じさせない様子で下界に通じる方へ足を向けた。


薔薇のつぎに
うつくしい


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「見えない臓器の名前は」
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