性教育シリーズ(実井編)
波多野や田崎の話とは少々異なる設定


「僕は言いましたよね、こんな事をする必要などないと」

 いつもの温和な表情を崩した実井の目の前にいる女は布団の上に正座し、そして全裸であったが、ふたりは別段そういう仲でもなく、かといって今から交接する予定も、そういう仲になる予定もなかった。実井は厳しい表情をしながらも、明かりの下で露わになった女の乳房や、うっすらと生える下の毛並みから視線を逸らすことはない。もはやこういうものに興奮するような年齢はとうに過ぎてしまっていたし、そもそも情交なんていう獣臭いことに興味があまりなかった。……とはいっても、それは精神的な側面の話であって、肉体的にはどうかと問われれば、彼ははぐらかすに違いない。おそらく彼女の身体に触れてしまえば、脈拍は普段よりは上昇の値を示すだろうし、彼の雄もやがて熱を持つであろう。ひとりの人間である前に、彼はヒトであり、生物なのでそれは抗いようのない事だった。

「聞いてますか?」

 明らかに虫の居所が悪いと言わんばかりの雰囲気を醸し出している女は、実井の方を全く見ようとしない。勿論返事もない。そんな彼女の態度によって怒りがますます増長されたが、実井はなるべく、ゆっくりと、丁寧に、幼子に言って聞かせるような声色で、彼女に対して言葉を紡いだ。

「結城中佐も言っていたでしょう。このような行為で得られる情報なんて大した事がないと。講義の内容をお忘れですか?あなたがやろうとしている事は、ただ自分自身を満足するためのものであって、何の意味なんてないんです」
「……自分自身を満足させて何がいけないんですか。自身の精神を安定させることの何がいけないというんですか」

 やっとこちらを見たかと思うと、また生意気な事を言う。やってられない、と若干嫌気がさしていた実井は胸元のポケットから煙草を一本取り出して、手持ちのマッチで火をつけた。灰皿は彼女の方にあり、目で寄越せと促すが、今の彼女がそんな事をするわけなんぞなく。実井は舌打ちをしたいのを堪え、腰を浮かせて灰皿に手を伸ばす。すると、女の方が先に自分の横にあった灰皿をばっと奪い、胸元に抱えてしまった。男の方は一瞬呆気にとられる。女の裸体に灰皿。なんとも珍妙な光景である。

「それを今すぐ渡しなさい」
「嫌です」
「ほら灰が落ちる、宿の畳や布団を汚すわけにはいきません」

 宿の人に申し訳ないという話ではなく、面倒事によって宿の人間に顔を覚えられるのを単に避けたいだけだった。

「あと少しだったのに、実井さんのせいだ」
「なにがあと少しですか、あんな強引なやり方で」

 実井は脳裏で数十分前の事を思い出す。スパイをする上で、性的な技術が必要不可欠だと勝手に感じていた女は、自分がまだ処女である事に焦り、その辺にいる男を宿に連れ込んでひとまずとっとと純潔を捨ててしまおうと考えていたのだ。D機関の男に頼むと、自分が生娘であるという事が露見してしまう。それは彼女の矜持が許さなかった。彼女も彼らと同じように自尊心が高く、自分が何かに対して無知であったり、劣っていると人に知れるのが嫌だった。(彼女が男を知らないというのは、殆どの人間に勘付かれていたのだが、彼女自身はその事実を知らないので、それはつまり彼らが知らないと同義だ。)

 男たちで街へ繰り出している最中、同期の女が色街で道行く男たちに凄い剣幕で声をかけているところを、実井がたまたま見つけて後をつけていなければ、彼女は、前歯がやけに目立つ醜男に抱かれていたのだ。それを想像すると、どうにも怒りがふつふつと湧いてくる。
 こんなくだらない事で感情を乱すような質(たち)ではなかったはずであるのに、一体どうしたのだろう。けれども、やはり、彼女が他の見知らぬ誰かに純潔を捧げるのは気に入らなかった。
 今の日本の在り方や男女に対する考え方に対して、鼻を鳴らしながら一蹴しつつも、どこか捉われている自分がいるからだと、そこでようやっと気付き、実井は煙草を人差し指と中指に挟んだまま、髪をかき上げた。灰が布団に落ち、焦げ跡を作る。女は男の様子に怪訝な表情を浮かべながら、それでも灰皿は渡さないとぎゅうっと更に強く抱え込んだ。

「本当にあと少しだったのに……実井さんのせいです、責任とってください」
「責任とは」実井は髪をかき上げた状態のままで問うた。伏せられた目が、ぎろりと女の方に向けられる。
「実井さんが代わりに抱いてください」
「嫌ですよ」
「もしかして実井さんも経験がないんですか?」
「馬鹿な事を言う……」

 実井は煙草を軽く吸うと、正座の体勢を崩し、布団の上にあぐらをかいた。いつもきちんとしている印象のあった実井がそんな恰好をする様を初めて見たので、女は内心びくりとした。しかしここで折れてしまっては、今までの彼女の努力は水泡に帰すので、彼女はもう一度語気を強めて「実井さんが代わりに私を抱いてください」と宣った。それでも実井はやる気なさげにただ煙草を吸うだけだったため、男が聞けば大抵の者が怒るであろう言葉を口にしてしまった。そのくらい彼女も必死なのである。たとえ、皆に経験があるかないかなど関係ないと言われようとも。

「もし、もし断れば、実井さんは女性経験のない、大変面白味に欠ける人だったとみんなに言い触らします」
「ほう、面白い事を言いますね」

 実井の片方の眉が上へ持ち上がる。次の瞬間、女が感じたのは、煙草の味だった。彼女の瞳に映るのは男の頭部だけだ。自分がいまいったいどういう状況か理解できずにいた彼女の意識を覚ますように、男の舌がその柔い唇を舐めた。非常にゆっくりと顔を離した実井の片手にはいつの間にか灰皿が握られており、「あ!」と女は自分の両手を見る。

 実井は、まだ十分に吸える煙草の火を、今しがた手に入れた灰皿でもみ消して、自分の横に置いた。

「いいでしょう、喧嘩を売ったのはあなたという事を決してお忘れなく」

 自分はもしかしてとんでもない男に喧嘩を売ってしまったのではないか、と後悔し始める頃には、とっくの昔に彼女の身体は実井の手によって布団の上に押し倒されていたのだった。

鷹の爪

ネタ提供: 詠美氏
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