1.
「では、こちらの品は…」
「もう既に調査の結果は出ている。好きにしろ」
薄暗い事務所の椅子に座った大佐は机に置かれた木箱の蓋を閉めると、目を閉じて大きく溜め息を吐いた。もうその木箱にも、他の品にも用は無いのだ。一度敬礼してからその木箱を手に取ると、「わからぬものだな…」と疲れ切った声が聞こえた。もう一度敬礼をしてから部屋を後にし、そして私も同じように小さく、「わからないものですね」と呟いた。
美しい女性であった。生まれつき身体が丈夫ではなく、どちらかというと引きこもりがちな人生を送ってきた女性である。そこそこ良い年にもかかわらず良い縁談に恵まれなかったのはその病弱な身体が原因であったが、彼女の両親はそれをあまり気にしてはいないようであった。病弱であろうともその女性は家計の助けになれば、と僅かな時間ながらも近所のパン屋に勤めていた。病弱な身体、良い面談に恵まれない運、それでも女性と両親は幸せに暮らしていたはずだ。
その男と出会ったのは1年ほど前の出来事である。きっかけは単純で、同じ建物にその男が引っ越してきたからだ。東の島国から来たという美術商の男は、各国の美術品や骨董品を集めていた。それは殆ど家に引きこもりがちで外の世界を知らずに育ってきた女性にとって興味の塊であっただろう。2人が親しくなるのにそう時間はかからなかったと、近隣住民は口を揃えて言った。そして「お似合いの2人であった」とも。
近隣住民の話によると、2人の関係は相思相愛に見えはしたが、どちらかというと女性の方が一方的に恋慕していた様子であったという。恋心か、美術品への興味か、ふと消えては突然帰ってくるその男を捕まえては色んな話をせがみ、男は呆れながらそれに応えるのが2人にとっての、否、近隣住民が見かける2人の日常であった。
「…わたしが、一方的に想いを寄せていただけなのです」
取り調べ室を訪れたその女性は憔悴しきった表情を変えずに、俯いて机の染みを見つめたままそう呟いた。それはその日本人美術商についての事情聴取であったが、既に彼女の素性は洗いざらい調べられたうえでの、形式的な取り調べである。もう何日もろくに睡眠をとっていないのか目の下にはおぞましい程の隈が出来ており、美しかった髪は痛み、写真で見たやわらかい頬は痩せこけている。例え一方的な恋慕であろうとも、最愛の人間を失うという事はここまで人を醜くしてしまうのか。
私が彼女と対面するのはこれで二度目である。ゆっくりと開けられた扉から姿を現した彼女はやはりあの時と同じく憔悴したままであり、むしろあの取り調べの時よりもやつれ具合は酷くなっていた。
「…あの、まだ、なにか」
「本日は私個人の独断で参りました。これを、貴女に。マキ氏の遺品のひとつです。彼が最期まで肌身離さず持っていた物で、…これは、貴女が持つべきものと判断しました」
マキ、という名を耳にした彼女はその目を大きく見開いて動揺した。未だ気持ちの整理がつけられないのだからそれは当然の反応であった。しばらく狼狽えてから女性はおそるおそる、私が差し出した木箱を受け取る。しっかりと彼女の手に収まったのを確認してから、一歩、身を引いてから頭を下げ、早々にその場を立ち去った。例え彼女の一方的な恋慕であろうとも、それを確認するのは彼女本人であるべきだ。
2.
美しい女性であったからこそ、信用というのが難しくあった。病弱でろくに外に出る事もなく育ってきた箱入り娘。その顔立ちは異国の出身である自分ですら美しいと見惚れてしまう程である。たまたま縁談が立て続けに上手くいかなかっただけで、彼女の美しさを欲しがる男はごまんと居るであろうに、彼女も両親も必要以上に縁談を求める事はしないでいた。それは箱入り娘を大事に思う親心かもしれないが、だからこそ、こんなろくでもない男に引っかかってしまうのだ。その日も彼女は僕の姿を見つけると幸せそうに微笑んで駆け寄ってくるのだ。
「今日はどんなお話を聞かせてくれますか?」
「話す事前提なのかい?」
「ええ、もちろん!」
ああ、でも。そのままでも美しい女性が、美などひとかけらも意識せずにかたちどる笑みが僕だけに向けられるというのは、悪い気はしない。
人の事情なんておかまいなし、男への接し方だってわからず、そこに警戒心すらない。彼女を口説いた事実は無いが、彼女は当然のように僕の部屋に足を踏み入れるものだから、あまりの図々しさに逆に僕が警戒をするはめになってしまった。彼女がはじめて僕の部屋に足を踏み入れた時、既に彼女の経歴や素性は調べ尽くしていたにもかかわらず、だ。彼女は常に僕の歩調を乱していた。それを煩わしく思う事は、正直幾度もあった。鬱陶しいと思う事もあった。しかし全てを上手くやり通さなければならないという気持ちが僕を動かして、彼女に笑顔を向けていた。けれど、そこに苦はなかった。
「…え?」
本当は一度で聞き取れていたその言葉に、思わず聞き返してしまったのは本気で彼女の思考が理解出来なかったからだ。彼女は椅子にもたれ掛かっていつものようにお気に入りのフェナキストスコープを覗きながら、当然のようにその言葉を復唱する。
「わたし、あなたにとっての美術品になりたいの」
「どういった意味で?」
「あなたは美しいものが好きなのでしょう」
それが彼女なりの愛の告白なのだと理解出来ない男がどこにいようか。フェナキストスコープを覗いてたはずの彼女の横顔は薄暗い部屋の中でも目視出来る程赤く染まって、彼女は隠し事が出来ない性分な事を思い出した。彼女が僕の部屋に踏み入れるようになってから、もう半年は経っていた。
「今日はもう遅いですから、お開きにしましょう。部屋の前まで送りますよ」
「えっ、あ、はい…そうですね、もうこんな時間」
その言葉の真意をくみ取れない馬鹿な男の振りをするのは些か応えたが、彼女の愛の告白をこの場で断る事も受け入れる事も出来なかった僕の苦肉の決断がそれである。たった数分廊下歩くだけの見送りをして、彼女が自宅のドアの中に消えていくのを見届ける。最後に見た彼女の背筋はどことなく寂しそうであった。以降、自宅に彼女を入れさせる事はなかった。
3.
何でも知っていて、何でも持っている人。姿勢良く佇む姿はとても美しいと思った。近所の方々は背が低いだの、肌の色がだの、容姿に対して好意的な感情は持っていなかったようだけれど、わたしは彼以上に美しく佇む男性を見た事がない。その視線も薄い唇も、わたしを魅了するためにあるのではないかと思うくらい。そう呟くと、近所のおばさんは「相変わらず少女のままなのねぇ」とからかうように笑うのだった。自由に外を出歩くだけの体力がなかったわたしは、童話だけが友達だったのである。
美術商をしていたマキという男性は色々な物を持っていた。部屋には各国の美術品が並び、時にはおぞましい物も混じっていたけれど、彼にとってそれは美しいものなのだという。
「フェナキ…フェ…えっと、ごめんなさい。もう一度…」
「フェナキストスコープ。今のドイツ情勢だと本当はあんまり持ち出しちゃいけないものなんだけど…ほら、覗いてごらん」
「…わぁ!」
円盤の形をしたそれを覗くと男女が手を取り合ってくるくると踊っているので、思わず声が漏れてしまった。それはわたしにとってはじめて見るもののひとつであった。スコープから顔を離して彼の視線を向けると、そこには驚くくらい穏やかに微笑む彼が居て、わたしは思わず彼のその微笑みに見惚れてしまった。彼はすぐに表情をいつもの笑顔に戻してしまった。
「気に入りましたか?」
「ええ、とても!とてもかわいらしいです…」
「ならよかった」
その後どんな話をしてどうやって自宅へ帰ったか覚えていない。なんどもなんども脳裏をかすめる彼の穏やかな笑顔がわたしの思考を妨げる。もっと傍に居たい。もっとその笑顔を見ていたい。もっと、あなたの心を知りたいと願ってしまった。
わたしは彼の、美術品になりたかった。彼は美しいものが好きだから。その美しさのひとつになって、彼に愛されたかったのだ。けれど彼はそうではなかった。わたしの一方的な恋慕であったとわかっていたのに、あの時の笑顔がわたしの思考を鈍くするので、「あなたの美術品になりたい」などと、はしたない事を口走ってしまった。彼は動揺しているようだった。そして困っているようだった。すぐにいつもの表情に戻してから、彼はいつも通りわたしを自宅まで送ってくれて、そして、それ以降彼の部屋にわたしが足を踏み入れる事はなかった。彼が、拒んだのだ。それが答えであった。
「日本の国の、櫛というものですね」
彷徨うように街に繰り出した先で目についたベンチに腰を下ろし、軍人の方から頂いた木箱を覗いていた時の事だった。降り注いだのは男性の声で、見上げると黒いコートに身を包んだ初老の男性がわたしを見下ろしていた。杖が白い雪を突き刺して、男性がわたしの隣に腰を掛ける。かたい表情のままではあったが、その声色はとても優しいものであった。
「…ご存じなのですか」
「友人がそういった事情に詳しいのです」
「…これは、どういった意味なのでしょうか」
わたしの声は震えていた。彼が最後まで肌身離さず持っていたという木箱に入っていたのは、見慣れない形をした小物と一枚の写真であった。
「櫛は古くから、霊が宿る等の言い伝えがあり、あまり良い品としては認識されていませんでした」
遠くを見ながら、男性は淡々と口を動かした。
「けれど、男性が女性へ送る場合。それは特別な意味を孕みます」
男性はクシの説明をするとわたしの反応を待たずにそのままゆっくりと歩き出してしまった。わたしはというと、放心状態のまま男性とは反対方面へ、再び彷徨うように街を歩き出した。けれど今度はしっかりと、目的地をもって。
彼の墓地に来るのは二度目である。一度目は全てを受け入れられず、泣きながら自宅まで走り去ってしまった。彼の死から逃げてしまったのだ。結局彼へちゃんと想いを伝える事も、謝る事も、何一つ出来なかった。あなたの美術品になりたい、などと我が儘をいって困らせ、拒絶されたまま。そんな迷惑な女だというのに、…。
『…男性が女性へ送る場合。それは求婚の意味を持ちます。その日本人の方は、その写真の女性に贈りたかったのではないでしょうか』
「ねえ、マキさん。あなたのお国の男性というのは、みんな不器用な方ばかりなのでしょうか。…この木箱の意味を教えてくださった方もね、すぐにどこかへ行ってしまわれて。わたし、あなたにもあの方にもお礼出来ないままです」
困りましたね、と笑ったはずのわたしの頬には涙がこぼれ落ちていた。とうに枯れ果てたと思い込んでいた涙は温もりを持ったままわたしの頬を絶え間なく流れ続ける。もう既にこの地で眠る彼には無い温もりを主張するかのように、わたしの目頭をとても熱くするのだ。ねえ、今目の前にあなたがいたら、この涙を拭ってくれるのでしょうか。わたしはあの男性の言葉を信じても良いのでしょうか。あなたが、最期まで共にしたのが、この木箱だという事も、木箱に入っていたクシとわたしの写真も、自惚れて良いのでしょうか。もしそうなら、あの時のわたしの愛の告白も、本当はあなたは気付いていたのでしょうか。もしそうなら、もしそうであったのなら、やはりわたしは。
「わたしは、あなたにとっての愛する人でありたかったのです」
うつくしき日々
----------
image song: フユノ