日曜日の昼下がり、JR上野の公園口にあるカフェで、私は独特の容器に注がれたレモンスカッシュをストローで啜っていた。どうしてこうなってしまったんだろう。どうせ堂々巡りだと分かっているけれど、今日の事の経緯を考える。と、テーブルの上に置かれているiPhoneが、メッセージを受信したと伝えてきた。誰かなんて見ずとも分かる。今日のデート(?)の相手だ。
“僕もそろそろ着きます。そのままカフェの中で待っていてください。外は暑いので。”
相手の几帳面さが滲み出たメッセージに、本日5回目の溜息を吐く。本当に、本当に来る気でいるのか、あの人は。思わず頭を抱え込んでしまい、周りの目が私の方へ向く。知るもんか、私は悩んでいるのだ。こちらとしてはいたって真面目だけれど、あの人には似合わなすぎる。駅構内に貼られていた広告を思い出す。抵抗力を無くすための丸みを帯びたフォルム、ギザギザのいかにも肉を食いちぎるために進化したような歯。標本の前でピースをする三好さんをイメージしてみて、ああ、駄目だ、やっぱり彼には似合わない。
あのゲロ事件から、数カ月。私は三好さんとの縁を切れないでいた。というよりも、彼が私を何度もなんども誘うのだ。彼と会ってやる事と言えば、ご飯を食べたり、映画を見たり……それだけで、特に何の進展もない。そういう雰囲気にすらなった事もない。この間の飲み会の幹事をしてくれた経理課の女の子の言葉を思い出す。合コンをして1週間経った頃、たまたま会社近くのコンビニの前で会ったのだ。「D課の野郎はね、女をどうやって落とすしか考えてないのよ、だから落ちたらそれで終わり。しかも何日で物にできるか賭け事までしてんの、あり得なくない?」煙草を燻らせながら大変憎らし気に仰っていた。一体何があったのかは怖くて聞けなかった。なんせチキンなので。「***さん、三好さんに言い寄られてるんでしょ?気を付けた方がいいよ、かなりタチが悪いって」彼女は煙草の灰が地面に落ちるのも気にしないで私に顔を近づけ忠告をしてくれた。煙草のにおいがとにかく臭くてそれどころじゃなかった私は、早く会話を終わらせたくて、うんうんと分かったふりをしたのだった。彼が本当にゲロを吐いた女を落とす気だったとしたら、なんとしてでもそれは避けたい。私はまっとうな恋愛がしたい。そろそろ疲れた。あんなイケメンがずっと傍に居るとひどく緊張して、別れる頃にはいつもくたくただった。一刻も早くこの関係を終わらせ……いや待てよ、とすれば、むしろチャンスじゃないのか?今日とことん幻滅されよう。そうしよう。気持ち悪いほど興奮するさまを見せて相手を幻滅させる作戦だ!私天才!
ガッツポーズを取っていると、横のいちゃついていたカップルが気持ち悪そうな顔をして足早に立ち去って行ってしまった。と、入れ違いで誰かが入ってくる。いわずもがな、三好さんだった。有名なロゴが入ったポロシャツに、紺のズボンを穿いている。半袖から覗く白く細い腕が眩しい。私より白いんじゃないか?いつもよりちょっとラフだったのは、今から行くところが子供向けだからだろう。
「***さん」
隅っこに座っている私を見つけた彼は、にっこり笑った後で、ここ数カ月ですっかり聴き慣れた声で私を呼んだ。私はガッツポーズをたちまちにやめて、同じようににっこり笑い返す。席に座った彼は、アイスコーヒーを頼んだ。え?まって、このまま行く気だったんだけど、と思いかけて、「(もしかして、まだあの場所に行く心づもりができてないかもしれない)」という結論に至り、それならば仕方ないと納得した。
「今日は本当に暑いですね」
「はい、本当に」
「そういえば、前売りを買ってしまったんですけど、***さん、もしかして既に持っていたりしますか?」
「あ、今回は買うの忘れてて持ってないですけど……えっ三好さん買われたんですか?!」
「それなら良かった」
そう言って三好さんは小ぶりのショルダーバッグから白い封筒を取り出して(ちょっとデジャブ)、さらに中から2枚のチケットを出して見せた。「海のハンター展」そこにはそう印字されており、今日私たちが行く予定のエキシビションである。
「あっお金」
「いいですよ」
「でもこれ、一枚せんよんひゃくえんもするんですよ!」
「安いじゃないですか」
駄目だ、金銭感覚が違う。諦めてストローを口に挟む。そんな様子を見て三好さんは薄く笑った。
「さっき、今回は、と言いましたけど、よく行くんですか、夏の展示に」
「もちろん!去年は生命大躍進展、その前は深海展だったんですよ、深海展の前売りはダイオウイカとクジラのストラップでこれが中々にリアル……」
勢いよく喋りかけて、口をつぐむ。しまった、また変な奴だと思われただろう。いや、でもそういう作戦だからいいのか?ただ、馬鹿にされるのは嫌だなあ。だって好きなんだもの、夏の特別展。
「***さんは、面白い趣味や嗜好の持ち主ですね」
別に馬鹿にしてるんじゃないんです、僕は、そういうあなたが好きだから。易々と吐かれた言葉にポカンとしている間に、レモンスカッシュのグラスを奪われ、彼の薄い唇が、先程私が口にしていたストローを当たり前のように咥える。白い喉仏が数回上下した後、三好さんがまた笑う。
「どうしました?」
あまり異性と付き合った経験がないというか、こういう色男とデートをした事は今までないので、もしかしたら最近の若い男女にとっては普通なのかもしれない。と思いたいってのが本音である。動揺を押し殺し、なんとか「いえ、なんでも」と答えた。
「子どもっぽいと、思うでしょう。前の彼氏には、そういう子どもっぽさが嫌だとよく言われました」
「嫌だな、昔の男の話なんて。僕は素敵だと思いますよ」
アイスコーヒーが運ばれてきて、私にグラスを返した後、三好さんは何も入れずにコーヒーを飲んだ。ブラック派だとしたら、私のこれは甘すぎたのでは。彼のやりたい事がよく分からない。
「そうですかね」
「でもあそこへ行くのは小学生ぶりかな、昔、恐竜にはまっていた時があって……」
「三好さんが恐竜を?……想像できない」
「僕だって男の子の時代がきちんとあったんですよ」
三好さんの子どもの頃を想像してみる。きっと今より可愛らしく、そして今と同じくらい美しい顔立ちをした子どもだったのだろう。そんな子どもが恐竜の標本に目を輝かせていると思うと、なんだかおかしかった。ついつい頬が緩んでしまう。三好さんは「そんなに面白いですか」とストローでアイスコーヒーの氷をかきませながら言った。
国立科学博物館にはかなり多くのタイプ標本が……三好さんが意外とそういう分野にも詳しいと分かり、私はよく喋った。カフェを出て、博物館に向かう道すがらも、博物館内でも、本当によく喋ったと思う。彼は根気よく頷きながら、私の曖昧な知識や記憶をうまく正してくれた。一緒に標本を見ている際、触れた手は、いつの間にか自然と繋がれていて、その事に気付いたのは博物館を出てからだった。今まで繋いでいたのにいきなりほどくのは申し訳ない気がして、そのまま歩く。日は大分暮れかけていた。
「今日は本当はひとりで来るつもりだったんでしょう。邪魔をしましたか」
「いえ、楽しかったです。それに、まさか三好さんが一緒に行ってくださるなんて、いつもひとりでしたから」
「予定があるか電話した時、焦った様子でしたから、他の男の人と約束があるのかと思いました」
私はそんな軽い女じゃないですよ、と言うと、三好さんは手の力を少し強くしてから、つまり僕との関係を軽く見ているわけじゃないんですねと満足そうな顔をした。そういう意味ではなかったんだけどな、と返答に困っていると、掲示板が目に入る。
「あ!10月からゴッホとゴーギャンなんだ、また来ないと。去年はモネ展だったんですよね、ゴッホもゴーギャンもかなり好きだから嬉しいなあ」
「もしかして去年のモネ展行かれましたか」
「三好さんも?」
「はい」
「「日の出は見ましたか?」」
2人の声が重なって、ちょっと吃驚した。三好さんも吃驚したらしい。いつもは猫のように細められている目が、少しだけ開かれた。
「見ましたよ、なんか、こう、後光が見えました、あそこだけやけに輝いて見えて。演出のせいかな」
「後光……まあ言いたい事は分かりますけど。絵もお好きなんですね」
「絵、というか芸術関連は全般好きですよ。詳しくはないんですけど、人が作った作品を見るのは割と好きです、特に昔の人のが」
「それはなぜ?」
「死んでもこうして後世に残っているのって、凄い事だと思いませんか。その人が死んでも丁重に扱いさえすれば作品は永遠にその形を損なわずにいられるのって、なんだか良いなあって。作者が死を超越してその作品の中に生きているような気がしてくるんです。生きた証が残るというのは本当にいい事ですね」
「僕も、そう思いますよ」
そう言う三好さんの横顔はなぜか寂しげだった。そんな顔は彼には似合わないなと思った私は、余計な事を口走る。
「もしよかったら、この展示会行きましょう!まだ大分先ですけど……」
「……初めてです」
「なにが?」
「***さんから誘ってくれるのが」
「別にそういうつもりでは……」
「分かってますよ、こちらも気長にいく予定なので」
一体なんの予定だろう。聞いてもどうせ「秘密」と言うに決まっているのだ。だったら何も聞かないでおく方が良い。いつも感じていたはずの緊張感の代わりに私が感じていたのは充足感と、心地良い疲労感だった。