「この間の飲み、どうだった」
「その話は聞かないで」

 月曜日。出社してくるなり、隣の席の同期が口紅を直しながらどうでも良さげに私に聞いた。私が金曜日の出来事を思い出しながらゲッソリした様子で答えると、同期は鏡をぱちんと閉じて「どういうこと」と今度は嬉々とした目で私に向き直る。

「なんか、もう、最悪だった」
「えっ?D課ってやっぱりヤバイ感じなの?」
「いや、みんな噂通りハンサムな人たちだったし、合コンは終始穏やかだったんだけど、単刀直入に言うと私がやらした」
「えっなにそれ詳しく教えてよ!」

 話は金曜日の19時過ぎに遡る。今しがた口紅を塗り直していた同期が参加する予定だった合コンに、彼女が行けなくなってしまったのである。理由は至極単純。遠距離恋愛中である彼女の彼氏が急遽こちらへ来る事になったから。
 「謎の多いD課の合コンに行きたいのが本音だけど、さすがに合コン行くから会えないなんて言えるわけないいじゃん。けど、空きが出るのも向こうに悪いから代わりに行ってくれない?タダ飯だよ」と、合コンが決まった際一度は断った私に白羽の矢が立ってしまった。(こちらからしたらまず彼氏がいる時点で合コンに参加するのはどうかと思うが、)タダ飯につられた私はつい頷いてしまった。そんなこんなで、同期が着る予定だった胸元がガバッと空いた服を借りて私は参加する事になった。(合コンなんて人生で3回目、というレベルだが、同期は数なんぞ最早覚えていないという。)

 合コン自体は概ねうまく進んだ。うちの会社で謎が多い課だと言われるD課の男達は、確かに変わり者といえば変わり者ばかりだったけれど、それを気にさせないくらいの粒ぞろいだった。なぜこんなにイケメンな男達が社内で全く噂にならないのか。D課の合コンを主催した幹事の女の子はこの会を設けるのにいかに尽力したかを女子トイレで熱弁していた。

 と、まあ4回目の席替えで参加しているメンツの中で一番チャラそうな男の人が私の隣になった。(神なんちゃらみたいな名前だったのは覚えている。)その時神なんちゃらさんは端っこの席だったので、必然的に私が会話相手となった。神なんちゃらさんは私を口説きひたすら口説き、本当に口説き倒し、よくそんな事が言えるなというレベルの甘い台詞をつらつらと私に吐いた。そしてガンガン酒を頼み、ガンガン私に飲ませた。元来酒にはそんなに強くない私である。しかし、「君のために頼んだから」とかなんとか言われると飲まないと申し訳なくなり、いつもの倍のペースで私は酒を煽った。結果、いつもの倍の早さで私は酔った。ぐでんぐでんに酔った私を見ながら、神なんちゃらさんは「大丈夫?」と言いながら私の腰に手を回しながら聞いてきたので、身の危険を感じた私は「ちょっと夜風に当たってきます」とその場からひとまず退散する事にした。神なんちゃらさんはついてこようとしたが、彼を狙っていた女の子に引き込められ(GJ吉川さん)、渋々腰を下ろした。私は神なんちゃらさんに気を取られすぎて、右横に誰が座っていたかなんて気にも止めていなかった。

 外に出ると緊張が抜けたのか、一気に体調が悪くなり、私は店の入り口横で蹲った。足元には排水溝があったので、最悪ここに吐こうと思った。10分くらいはそうしていただろうか。あ、そろそろクるぞ、というところで、上から声をした。

「大丈夫ですか」

 顔を上げると、合コンに参加していたD課の人が立っていた。最初に顔を合わせた時、とても綺麗な顔の人だな、と思っていた人だった。申し訳ないが、名前はその時覚えていなかった。片手には煙草を持っていたので、彼が遠慮しては悪いと、「どうぞお構いなく」と煙草を吸うように促すと、彼は「ああ、これは口実ですよ」とにっこり笑った。なんの?気になったけれど、色々限界に近かった私は「はあそうですか」と言うだけで精一杯だった。

 「ああやって酒を飲ませて充分に酔わせた後持って帰るのが神永のやり口なんですよ」あの人は神永というとか。「今日は貴女が標的でしたね」一体なんの標的だろう。「吉川さんが引き止めていなかったら危なかったと思いますよ」そう吉川さん引き止めてくれてありがとう。「ところで本当に大丈夫ですか」はい全然大丈夫じゃないですあと30秒もたたずに吐くと思うので合コンに戻ってもらっていいですか。

 私の相槌は全て脳内で行われた。

「***さん?」

 食道を這い上がってきた吐瀉物がぶちまけるのと、彼が屈み込み私の顔を覗き込むのは、ほぼ同時だった。つまり、私は彼の膝に吐いた。もうドバドバと。高そうなズボンが瞬く間に汚れた。一通り吐き終えた後、我に返った私は卒倒しそうになる。私はなんという事をしたのだろう。吐くとすぐ素面に戻る自分をこの時ばかりは呪いたくなった。彼は無表情のまま自分の膝をただ見つめていた。何も言わず。(私は1秒間に1回は「ごめんなさい」を言ったと思う。)
立ち上がり店に大慌てで戻り店員を引っ捕まえて大量のおしぼりをくれるよう頼んだ。強奪と言ってもいい形で大量のおしぼりをもらうとすぐさま外に出て謝りながらその膝を拭った。彼はやはり何も言わなかった。あらかた綺麗にはなったが、独特の臭いは取れるわけはなく。私は「(もう今すぐ帰りたい)」と思い、また再び店に戻ると鞄を引っ掴み「体調が悪いので帰ります」と宣言し、理由を尋ねる人々の声も聞かず、その場を後にした。彼はまだ外で片膝をついたままだった。私は財布の中から諭吉を取り出すと、彼の白い手にそれを押し付けた。

 「これで足りるか分かんないんですけど、 とりあえず渡しておきます。追加の請求は、ええと、あっこれ会社の名刺なんですけど、この裏に私の個人の電話番号があるんでそこに連絡してください。あの、本当に本当に今日はすみませんでした!では、失礼します!!」

 彼は顔を上げて何かを言っていたが、もう本当に何も聞きたくなかった。私はそのまま走り去った。全速力で走った為、おかげで次の日は筋肉痛になった。


 以上が大体の事のあらましである。同期は肩を震わせて大爆笑していた。

「あの、ごめん、笑ってごめん。いやでも面白すぎでしょ」
「私もこれが人の話だったら爆笑してたよ。もう社会的に死んだ気分。しかも日曜の夜に三好さんからメッセージ来てさ、今週いつが暇だって」
「三好って言うんだ……確かにその人なの?」
「うん。だってあの日連絡先交換したのその人くらいだもん。もう絶対ひゃくぱー文句言われるやつだよ」
「そんな事ないでしょ!もしかして気に入ったとかなんじゃない?」
「人の膝に嘔吐するような女が?」
「まあ私が男だったら絶対ナイわ」
「だよね。とにかく嫌な事はとっとと済ませたいタイプだから今日会う事にした。見てこれ、お詫びの品」
「とらやの羊羹じゃん」
「諭吉が飛んだっていうのに、お詫びのコレで今月の私はもう贅沢ができない」
「えーなんか、ごめん」
「いや悪いのは私だから良いんだよ。とにかく今日もう一回ちゃんと謝ってチャラにしてもらう」
「頑張って……」
「ありがとう」

 こういう日に限って仕事は忙しく、あっという間に約束の1時間前になってしまった。色々と腹をくくるつもりだったのに、忙しすぎてそれどころではなかった。三好さんがあまり会社の人に見られたくないからと、会社から5駅ほど離れた駅前で会う事になっていた。私が約束の15分前に行くと、彼はもう待ち合わせ場所に立っていた。遠目から見ても分かる色男臭。こんな人物にゲロったのかと思うと、死にたくなった。腕時計を見つめる彼の顔から表情は読めない。私は恐る恐る近付きながら声をかけた。

「あの、お疲れ様、です。***です……。」
「ああ、お疲れ様。それは?」
「あっえっと、これこの間のお詫びの……」
「わざわざ?ひとまず店を予約してるんで、付いてきてください」

 三好さんは私が差し出した紙袋に怪訝な顔をしながら受け取ると、颯爽と歩き出した。渡したらすぐ帰るつもりだったのに、きちんとした席で謝らなければいけないパターン!最悪だ!神経質そうな顔立ちだから(失礼)、一言なにか言わないと気が済まないのだろうか。私は消え入りそうな声で返事をすると前を歩く彼の背を追いかけた。


「とりあえずこれ、返しておきますね」

 連れてこられたのは、高そうなイタリアンの店だった。席に座るなり、白い封筒が差し出され、私がはてなマークを浮かべると、「クリーニング代、そんなにかからなかったので」と三好さんは言った。

「え?!いや、迷惑をかけたんでそんなの良いですよ!」
「本当はこれも返したいところですけど、折角頂いたのを突き返すのも悪いですし、まあ今日は僕が奢るんでそれでチャラですね」

 彼はあの時と同じ笑みを浮かべつつ、紙袋を少し持ち上げた。

「自分の分は出しますから!ていうか奢らせてください!」

 そういえばメニューはどこだろうとテーブルを見る。しかしそれらしきものは見当たらなかった。三好さんは私の様子を見てくすくす笑うと「もう頼んでるので」と言った。彼の考えている事が全く分からない。しばらくすると次々に料理が運ばれてきた。どれも美味しく、私がいちいち感動する度に、彼は満足げに笑った。本当に何を考えているか分からなかった。

 時間はあっという間に過ぎ、駅まで歩いたところで、はっと我に返った私は「待ってください!」と三好さんに向き直った。というか、彼はいつ会計をしていた?あまりにも流れるように店を出たので全く気が付かなかった。お叱りの言葉だってまだもらってない。

「私、払うって言いましたよね、いやその前にまだ今日の目的果たしてないじゃないですか」
「自分から誘っておいて女性に払わせるわけにいかないですよ。それに目的って?」

 三好さんの、猫のような切れ長の目が可笑しそうに細められる。その様にどきりとしながらも、私は言葉を続けた。

「目的って、だから、その」
「はい」

 コツリ、三好さんが靴音を鳴らしながら一歩こちらへ踏み出した。駅から漏れる光が私と彼の影を作り出す。私の影は三好さんの影にすっぽり覆われていた。顔を上げれば彼の顔がすぐある事がなんとなく分かり、私は顔を上げられずにいた。

「だからその、この間の私の大変な失礼な態度に対して、一言文句を言うために今日呼んだんだしょう?早く私を罵倒してください!!貶してください!そのくらいしてもらわないと私の方がむしろいたたまれなくなります!!!」

 沈黙が流れる。暫くすると、三好さんの吹き出す声が聞こえた。なんで笑うのだろう。顔を上げると、口に手を当てて笑いを堪える彼がいた。目と目が合う。

「貴女は、僕が文句を言うために呼びつけたと?」
「え?違うんですか?」
「そうですねぇ」

 彼が横目で行き交う人を見る。何かを考えている様子だった。やがて私の方に再び目を向けると、にこりと笑った。

「面白いので、秘密です」

 じゃあ僕はここで。

 彼はそれだけ言うと、私に背を向けてとっとと去って行ってしまった。一体何なんだ。月曜日の夜、解放される気でいたのに、ますます彼との関係から抜け出せないような気がした。
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