※後日談※ 誰かに肩を叩かれている。降谷零はまずそう思った。しかし中々瞼が自分の意志で持ち上がらず、まだ眠っていたいと思う。横にいる**の体温に触れようと、手を伸ばす。……そこには何もない。降谷はそこでぱちりと目を開いた。
目線を動かすと、かすかに微笑みを浮かべた**が、自分の枕元に立っているのが見えた。彼女の細長く、白い指が滑らかに動かされる。
「”起きて、朝だよ、バーボン”」
意表を突かれたかのように、降谷はベッドから半身をすぐ起こした。壁にかかっている時計は、6時を少し過ぎたところである。降谷は内心動揺しながらも、未だに笑みをたたえたままでいる**を心配させないように自分も笑顔を作った。
「おはよう、**」
「”おはよう、朝御飯出来てるから支度が整ったら来てね”」
そう言うと、**は扉を出て行ってしまった。その足取りは非常にしっかりしている。――少し前の**とまるで変わっていた。降谷は笑顔を引っ込めると、深い息を吐きながら前髪をかき上げた。
赤井秀一の生存が確かになってからというもの、**の様子は徐々に変わっていった。どちらの方に?勿論、正常な方向へ。**は何も自分に言ってこなかった。きっと赤井に口止めをされているのだ。**は約束した事は決して他の者に口外しない。恐らく自分の情報も赤井には何も渡っていないだろう。だからこそ、赤井と彼女が接触している事が分かっていても、その行為を止めさせる事ができない。それに、彼女の薬に因る障害が治っていっているのは、良い事だ。しかし、素直に歓迎できない降谷が心のどこかにいた。なぜかは分からなかった。
「”今日は、ポアロは、何時まで?”」
「17時までだけど、その後ベルモットと約束があるから帰るのは20時過ぎになるかな」
「”分かった、ご飯用意しておくね”」
冷蔵庫にあったホワイトボードは2週間前から真っ白のまま。ある朝、降谷がいつもの様にペンを持って冷蔵庫前に立っていると言われたのだ。「”もう、大丈夫だから”」ここ数年続いていた降谷の日課はたったそれだけの言葉で無くなってしまった。
「”行ってらっしゃい”」
そう言って快活に手を振る**に、降谷は曖昧な笑みを浮かべながら自宅をあとにした。
「前とは見違えるようね」
ある程度**を診終えた灰原哀はそう言って、**から手を離した。
「”哀ちゃんのおかげだね、ありがとう”」
早い動作で**がお礼を言うと、哀は「もう帰っていいわよ」とカルテに書き込みながら手を振った。江戸川コナンから彼女を診て欲しいと頼まれたのは数カ月前。黒の組織と全く関係ないとは言い切れないが、彼女自体は人畜無害であり、むしろ被害者に近いから、とコナンが言っていたのを思い出す。この件については隣人の沖矢昴も関与しているようだった。お前にしかこんな事頼めねぇんだよ。そう言われてしまったら断りきるのは最早不可能に近かった。詳しい事は当たり前のようにごまかされた。
彼女の症状は薬による中毒が主な原因で、ちゃんとした処置をすれば殆ど完治するものだった。哀の適切な方法によって彼女は瞬く間に回復していった。ここでひとつ思い浮かぶ疑問はひとつ。彼女には同居人がいるというのに、どうして何もしなかったのか。
「”私、沖矢さんのところに戻るね、いつも本当にありがとう”」
**はその事になんの疑問も疑念も抱いていないようで、その質問は今日も聞けず仕舞いだった。だって、彼女から聞かされる話によって推測される同居人の想像図はあまりにも聖人君子だったから。
「”私、バーボンの荷物になりたくない。いつも甘えてばかりで、自分から何もしようとしなかったけれど”」
だから、私がひとりで生きられるよう色々教えてほしい。
そんな事を言ってきたのは、治療を開始して1週間ほど経った頃だった。奴はそんなことは望んでいないと思うがな、と言う赤井の言葉に首を振り、**は再度お願いをした。
彼女は分かっていない。彼は本当に望んでいないのだ。だから、彼女の症状を本気で治そうとはせず、現状維持で放っておいた。**は、バーボンは優しいから、とまるで呪文のように言うけれど、本当に優しいのは彼女自身なのだ。あまりにも優しすぎるせいで、自分を取り巻く様々な思惑に気が付いてない。あの地下は地獄であり、いまいるこの場所は天国。自分を無条件に世話してくれるバーボンは彼女にとって、まさに神かなにかだった。
しつこくねだる**に折れた赤井は彼女に色々教えてやる事にした。彼女はまるで水を得た魚のように知識を吸収していった。「”世界はこんなにも面白い事で溢れているんだ”」ミミズ文字に近かった彼女の字は、小学生の低学年ほどの字になり、ろくに計算もできなかったのに、いまは簡単な足し引きならすぐできるようになった。「”あの頃はいつも薄い膜が脳に覆いかぶさっているような感じだったの”」彼女はそう言って笑った。その笑みから歪さは感じられない。普通の女性が見せる笑顔だ。「”声が出るようになったら、最初にバーボンの名前を呼びたい。そうしてありがとうって言いたい”」発声の本を見ながら**は真剣な面持ちで赤井に伝えた。赤井は「そうだな」と相槌を打つだけだった。
「”お帰り、晩御飯出来てるよ”」
「うん」
今日は、バーボンの好きなものだからね。並べられた料理は以前みたいにきっちりと計算されていない。皿の置く位置も、具材の大きさも。降谷はそれについて何も言わず静かに食べ始めた。言及してしまえば、彼女が変わったと認めたのも同然だ。認めなくなかった。なぜはやはり分からない。向かいに座る**が中々箸を持とうとしないので、降谷は軽く声を掛けた。
「どうしたんだ、体調でも悪い?」
「”降谷さん、話があります”」
降谷の手から箸が落ちる。
「”私、いま一人でも生活できるように色々と訓練してもらっています。勉強もしてる。ひとまず、高卒の認定試験を取る事を目標に。私にかけてくれたお金は一生かけても返します。まだ、ひとりで生きていくには無理だけど、でもいつか、必ず……あなたには、感謝しています、本当に、今日はその事をきちんと伝えたかった”」
手話を使って巧みに喋る**は、最早降谷が知る**ではなく、ひとりの女性だった。
――ああ、そうか、俺は、この事を恐れていたんだ。
彼女が”まとも”になってしまえば、こうなってしまうと心のどこかでは分かっていた。彼女はいずれ降谷のやっている事を知るだろう。彼女の前では素晴らしい人であり続けたかったが、彼女の中の自分の像が崩れる日も近い。破れた膜から零れ出るのは、腐臭を放った自分自身。
「**、ありがとう。そう言ってくれて俺は嬉しいよ」
俺はいま上手く笑えているだろうか。
それが分かるのは、眼の前にいる**、ただひとりだけだった。
虚に積もる常春Thanks; yatoriさん
2016.07.14