男は「なんでしょうか?」と問う。本当に分からない、という顔をしていた。なんどもなんども指文字で彼の名前を呼んだが、答えてくれる気配はない。**の気持ちは焦っていく。
「多分、なにか勘違いをしていると思いますよ」
男が去ろうとしたのでまた後ろを追いかける。彼は近くのパーキングに車をとめているらしく、乗り込もうとしたので、**は助手席のドアを開け素早く乗り込んだ。シートベルトを締めて出て行かない意思を示す。その様子を見ながらしばらく思案していた男はやがて諦めたかのように車を発進させた。
着いた場所は大きな一軒家だった。エンジンを止め、車のキーを抜いた男は、「お茶でも飲んでいきますか」と呑気に**に聞いた。彼女が弱く頷いたので、車を降りて彼女にも降りるように告げる。
玄関の扉が閉まり、男は「ちょっといいですか」と**の身体を上から下までさっと、しかし念入りに調べた。**はその際じっとしていたので、すぐ終わった。何もないことが分かると、男は背筋を正し「私は沖矢昴といいます、あなたは?」と口元の端にかすかな笑みを浮かべなから聞いた。反射的に指文字で自分の名前を示す。男には分からないようだった。自分のポケットに安室が作ってくれた名刺(のようなもの)が入っている事を思い出し、渡すと、納得したようだった。
「喋れないのですね、保護者が心配しているでしょう。家に電話したほうがいいのでは?」
その言葉に首を大きく振り、**はもう一度名前を呼んだ。ライ、ライ、ライ。金魚が餌を求めるかのように口がぱくぱくと開く。**は泣き出す寸前だった。目の前にいるのは間違いなく死んだはずのライであるのに、彼は自分を沖矢昴だと言う。どうして嘘をつくのだろう。それが分からなかった。
「……とりあえずリビングへどうぞ」
踵を返し、部屋へ行こうとするライの後ろ姿に**はしがみついた。彼の腹に腕を回すと、昔スコッチに教えてもらったやり方で自分の両手を組み、簡単には外れないようにした。彼が自分はライであると認めてくれるまで離す気はない。**に生と死の違いはよく分からない。死ねば二度と会えなくなるのは知っていた。死んだ、とバーボンの口から聞かされた時、**は安室も死んでしまうのではないかと恐ろしくなった事を覚えている。安室は「あいつがそう簡単に死ぬはずがない」と、まるで呪詛のように繰り返し呟いていた。それは嘘ではなかったのだ。ライはいま自分の腕の中にいる、生きている!生きているというのはあたたかい事だとスコッチの死で学んだ。
ほどよい温度を持つその背中に自分の頭を押し付けて、**は泣いた。沖矢昴がなんと言おうとどうでも良かった。触れて確かめてみて、彼が本当にライであると確信したから。沖矢昴、ライは、赤井秀一は、はぐらかしたところで離してもらえないと悟り、シャツの一番上のボタンを外し、チョーカーを露わにさせた。勿論、**には見えない。
「どうして俺だと?」
聞き慣れた声が、**の上に落ちてくる。涙と鼻水を垂らした**が顔を上げると、こちらを振り返っているライと目が合った。懐かしい緑色の瞳。そろりと彼の腹から腕を外した**は「"ゆびが、同じ"」だと答える。赤井は思わず自分の指を凝視した。自分の指に人と違うほどの特徴は見られない。**は時折こうやって人を驚かす。どこがどう違うか、そんな細かい事は**には答えられない。けれど、同じものは同じなのだ。赤井は観念した笑みを浮かべ、彼女の頭をぐしゃぐしゃにかき乱した。**はやっと笑う。頬の筋肉が痙攣してうまく笑えやしなかったが、**がこうやって笑みを浮かべるのはバーボンとライ、スコッチの前だけだった。
「いまもバーボンと一緒に住んでいるのか」
コップの中にある液体を飲む事に集中していたので、**はワンテンポ遅れて返事をした。口の端からココアが垂れたので手の甲で口を拭った後、コップを机に置いて手を使って話す。
「"バーボン、ライ、しんでないと思ってる"」
「そうだろうな。色々話は入ってきている」
「"なぜ?"」
この問いかけには沢山の意味があった。赤井はそれを分かっていたが、「なぜだろうな」と返すだけだった。**はそこから自分が知り得る単語で様々な話をした。バーボンが喫茶店で働き始めて、料理のレパートリーが増えたこと、あれから4回引っ越したこと、ピアノでエリーゼのためにが弾けるようになったこと、バーボンが忙しくてあんまり構ってくれないこと、犬が少しは好きになれたこと。すべてはとりとめなく、言ってしまえばどうでも良い事だった。赤井はそんな素振りも見せないで、静かに相槌を打ちながら彼女の話を聞いた。いつの間にか雨が降り始めていた。
リビングの掛け時計が古めかしい音で18時だと唄った。話に夢中になっていた**は真っ青な顔をして、ソファから立ち上がり玄関へ向かおうとする。理由を聞くと、18時までに帰らないといけないのだと**は言った。
「近くまで送ろう。バーボンが帰ってくるのは9時で間違いないんだな?」
車の中で、赤井は彼女に自分が生きていると言ってはならないと釘を刺した。なぜ?どうして?嘘をつくの?ぱぱっと矢継ぎ早に手話で聞かれ、赤井は笑った。あの頃より比べてかなり手話が上達した。安室が暇さえあれば教えているのだろう。
「こういう大事な事は自分で言わないと気が済まない質なんでね。ちゃんと自分で言うさ。だから君から伝えては駄目だ、分かったか?」
**はなるほどといった表情になり、赤井から目を逸らさずうんうんと頷いた。この様子なら大丈夫だろうと赤井は思う。約束した事は破れないような性格の持ち主だ。恐らくスコッチの事も安室には本当の事を伝えていないだろう。そう約束したから。
数年ぶりに会った**は大人の女に近付き、様変りしていたが、純真無垢なところは全く変わっていない。けれど確実に人として成長していた。表情のいびつさも目立たない。それは安室透が彼女をいまも大事に育てている証拠だ。あの頃も、一番安室が彼女を気にかけていた。
車が彼らの住むマンションの近くの公園にとめられる。18時をもう28分も過ぎていた。**は車から飛び出してすぐさま家に戻りたい気持ちをおさえて、ライにまた会いに行ってもいいか聞いた。おそらく駄目だと言われても彼女は会いに行くだろう。バーボンと同じくらい**はライの事が好きなので。
「別にいいが、バーボンにはバレるなよ」
「"大丈夫"」
「道は分かるか?待ってろ、いま住所を」
「"覚えた"」
了承を得られた事に安心した**は挨拶もそこそこに車を降り、マンションの方向に走り出してしまった。雨に濡れながら帰るその姿をサイドミラーで見ながらやれやれと思う。今さっきまで彼女が座っていた助手席をなにげなく見ると、黒色の大きい傘が所在無げにぽつんと置かれていた。