カンカンと急き立てる音が聞こえる。猫目の男が焦った様子でこちらを一瞬見て、声は出さず早口で何かを言う。次に聞こえるのは、銃声だ。一瞬で生が失われた男を、返り血を浴びた男は感情を失った瞳でただ見ていた。いや、違う。そう装っているのだ。死んだ男に駆け寄る、彼のために。**はどうしていいか分からずその場に立ち尽くしているだけだった。
***「**、俺はもう行くよ」
優しいリズムで肩を叩かれ、**は浅い眠りから起こされる。急いで身体を起こすと、安室透はもう部屋を出ていこうとしているところだった。時計の針は丁度7時を指していた。ベッドの軋む音に安室は振り返る。手のひらをこちらに向けて小さく2回振った彼女に、「うん、行ってきます」と穏やかな笑みを浮かべて安室は答えた。扉が閉まる。いつもどおりの朝だった。
ひとり取り残された**は、ベッドで大きく伸びを数回すると、フローリングに足をついた。開けられた窓から風が入り、気持ち良い。夏がすぐそこに来ている。もう一度寝ても良いと思う。揺らいだ気持ちを押しとどめながら、**は皺のよったベッドを綺麗に正す。それが終わったら朝食だ。
今日の朝食は和食らしい。米の澱粉の匂いが部屋に充満していた。まだ充分に温かったので、**はそのまま食べる事にした。手のひらと手のひらを合わせて、いただきますと口を動かす。息が弱く漏れるだけで、声は出なかった。後天性の発声障害を**は患っていた。その原因は彼女の過去に遡る。しかし彼女にとって思い出したくない記憶である。だから遡るような事は決してしない。そもそも自らそのような事をしなくても脳裏に時折ちらつくのだ。彼女にすっかりこびり付いてしまった赤錆は、目も当てられないほど腐った部分は、誰にも取り除いてやる事は出来ない。出来るのは、その部分を刺激しない、それだけ。
非常にゆっくりと進められた食事は、予定通り30分後に終了した。食器を流しに持って行くと、今日は時間があまりなかったのか、安室の食器も残されていた。たった1人分増えただけなので、洗い物はすぐ済んだ。今日は火曜日なので、キッチンを念入りに掃除する日だ。キッチンのラックを開け、ブラシや重曹の入った瓶を取り出す。**は決められた曜日に決められた事をするのが好きだった。と、いうより柔軟に生きられない性質の人間だった。風呂場が汚れてきたから掃除をしよう、とか、今日は午後から雨が降りそうだから洗濯物は早めに済ませようとか、そういう事を考えるのが苦手だった。安室に代わって料理をする事もあったが、それは本に載っている通りに行われる。5 gと書いてあれば、電子天秤を取り出して5.0 gと量らなければ気が済まない。家庭用の電子天秤は0.1 gより下は表示されないものが多く、正確にいえば5.0245 gだったりするのだが、0.1 gの下が在る事を知らない彼女には関係のない事だった。きっちりと何もかも決められた日常の方が彼女にとって生きやすい。きっと先天的に何かが欠けているのだ。想定外な事が起き、混乱した彼女を鎮めるのは安室だった。
綺麗に磨き上げられたキッチンに満足した**は洗濯物に移ろうとして、冷蔵庫にかけられたホワイトボードを見た。そこには整った字で様々な事が書かれている。平仮名の多い文字の羅列を、ゆっくりと、歳には合わないスピードで読んでいく。
“せんたく物→ダメ 理由→13時すぎから雨”
雨の横には青色で雫のマークが丁寧に描かれている。**はがっかりした。洗濯をするのが好きなのだ。掃除機をかける日は明日なので、今日やる事はもう何もない。何もない時にする事はテレビを見るか、部屋にある幼児向けの本を読むか、外を散歩するかの3つだ。**はそれをあみだくじで決める。その日決められた事以外は絶対にしない。
左手にマジックペンを持ち、テーブルに白い紙を置いて3本の線を引き、更に短い線を足していく。**から見たら真っ直ぐな線は、他の人が見ると歪んでいて、彼女しか線を追っかける事は出来ない。結果は外を散歩する、だった。もう一度ホワイトボードを見る。外に出る場合は傘を持っていく事、18時までに帰る事、と書かれていた。
どんより曇った道を、男の物の傘をぶら下げた**は歩く。まず行く場所は、酒屋だ。店に入ると、事情を知っている店主が「いらっしゃい」と言ってくれたので、**は軽く会釈をした。向かう先はウィスキーなどが置かれている棚で、そこで3つの言葉を探す。置き場所は変わっていないのに、**はまるで初めてのように視線をキョロキョロさせた。まず初めにBourbon, 次にRye, 最後にScotch。1つずつ丁寧に字をなぞる。
2つの言葉は既に欠けてしまった。その事がどうしようもなく寂しい。現実に彼らが揃うことはない。しかし、ここに来れば彼等は仲良く揃っている。これはよくライが飲んでいたもの、確かこの銘柄はスコッチが好きだった酒だ、と見て回る。ウィスキー以外にも彼等は飲んでいたが、彼等を表す酒にしか興味はなかった。年齢的に彼女は酒を飲める歳だ。けれど、決して買うことはしない。だって買ったところで、あの頃が帰ってくる事は永遠にない。
その日もそうやって棚を物色していると、「失礼」と声がした。**は棚の前からぱっと離れた。眼鏡をかけた男は、迷うことなく**が見ていた銘柄のバーボンをとった。その様子を眺めていた**は、男が去った後ある事に気付いた。心臓が早まっているのを感じながら、追いかけると男はレジに行って会計をしているところだった。先に外に出て彼を待つ。出てきたところで**は男の腕を掴み、名前を呼んだ。震える右手で、人差し指・中指を立て、チョキの形を作る。そのまま親指を立て、人差し指を中指の前に持って行きクロスさせる。その後形を崩してぐっと拳を握り、指切りをするかのように小指だけを立てた。
「”ら・い”」
それは彼女に出来る精一杯の呼びかけだった。