数ヶ月ぶりに私は侘助の元に訪れた。私は彼に会いたくてたまらなかった。なんせ今日は朗報を持ってきたのだ。いつもするノックにも熱が入る。しかし、数分待っても侘助はドアを開けてくれなかった。そういえば、前に一度疲労で倒れていた事があったのを思い出す。それに最後に会った日に、もう少しで何かが完成すると嬉しそうに言っていた。彼は研究に没頭すると、人間の営みを忘れてしまう癖がある。私は不安を感じ、念の為と預かっていた合鍵を取り出して、鍵を開けた。

「ワビスケ?いる?」

踏み込んだ部屋は何ら変わった様子がなかった。寝ているのだろうか、それにしては静か過ぎる。あまり気が進まなかったけど、寝室も覗いてみた。バスルームも、トイレも、ドアがある場所は全て覗いた。侘助はどこにも見当たらなかった。そもそもここ数日、いや数週間ここで人が寝起きした気配すらなかった。そして私はある引き出しを開けて確信した、彼がもうアメリカにいない事を。いつもあったはずのパスポートがなくなっているのだ。他にもよくよく見てみるとなくなっているものはたくさんあった。私は前の記憶と照らし合わせながら、ひとつひとつ何が彼と共にここを去ったのかを見ていった。茶色いトランク、数枚の衣服、携帯、メモ帳、パソコン。不思議と心は落ち着いていた。きっと心の中でいつかこういう日が来るのだと分かっていたからだ。侘助はもう帰ってこないだろう。ここにある荷物もその内処分されるか彼の元に運ばれるだろう。しっかりと鍵が閉まっている事を確認して、私は彼の部屋を跡にした。


足は自然と侘助と出会った場所に向いていた。そこは侘助のアパートから歩いて数分の所にある何ら変哲のない公園だった。市街地から離れているため散歩やランニングする人の方もあまりおらず、中央にある噴水が唯一機能しているこの公園の役目だ。その噴水も古びていて、お世辞にも綺麗だとは言えない。でも私はその公園が好きだった。飲み明かした朝は噴水の縁に座って、よく愚痴や不満を聞いてもらった。無機物相手に何をやっているんだと思うかもしれないけど、当時の心境を推測するに私は仲間が欲しかったのだろう。自分と同じ、忘れ去られた存在が。

6年前のあの日もバーから追い出されるまで飲み続けて、愚痴をいいながら公園に行っていた。そうしたら、聞こえたのだ。焦燥感を掻き立て泣きたくなるような歌が、でもそれでいて暖かい温度を持った歌が。私は泣きたくなるのをこらえて、酔いのせいで覚束ない足を早く動かして噴水に向かった。待ち人がそこにいるような気がしてならなかった。だけど薄明かるい光に照らされている侘助を見た瞬間、激しい怒りを覚えた。身なりが整っていて、とても裕福そうで、帰ったら誰かが待っている様な人になど来て欲しくはなかったのだ。私は、私だけの大切な居場所が荒らされた気分になった。侘助は私に気付かず、足元の猫を撫でながら歌を続けた。先程聞いた、悲しくて暖かい不思議な歌を。すると何故だか、彼が急に哀れに見えてきた。そうしてとうとう声を掛けてしまったのだ。

「こんばんは」

侘助は私を一瞥するなり、煩わしい表情になった。そりゃそうだ、自分の世界に浸っている最中に声を掛けられたのだから。そして恥ずかしながら、私は当時、体を売って生計を立てていた。そういう雰囲気は中々隠せないもので、すぐ分かってしまう。誰もそんな女なんかに絡まれたくないだろう。勿論その時私は彼の懐に潜り込もうなんて思ってはいなかった。


「なんか用か」
「嫌ね。そんなに警戒しなくてもいいじゃない。ただ、ここの噴水は私が先に見つけた場所なのよ。退いてくださらない?」
「そりゃ悪かったな」


明らかに警戒されているという事が、妙に腹立たしくてつい言おうとは思ってなかった言葉が飛び出す。侘助は面倒事に巻き込まれたくない為か、至極あっさりと身を翻そうとした。私は慌てた。違う、去って欲しいんじゃない、あの歌をもう一度歌って欲しいだけ、…隣で。


「ま、待ちなさいよ!そんなにすぐに去れなんて言ってないわ」
「女は間に合ってる」
「別にあんたを客と思っちゃいないわ!私はもっとがっしりした男がいいもの!!」


ああ、私は何を言ってるんだ。相手の神経を逆撫でしてどうする。客にならいくらでも甘い言葉を吐けるというのに。素はこういう性格だったのだと久し振りに思い出す。自分が馬鹿すぎて恥ずかしい。


「シシシッお前顔真っ赤だぜ。それで本当に客とれんのか?」
「あなたに関係ない!やっぱり今すぐ去って!ここから!」
「おう。まあ頑張れや」


侘助は肩を揺らしながら独特な笑い方をした。あまりの恥ずかしさにまた自分の意に反した言葉を出してしまう。私の態度に再び笑いながら、彼は励ますかのように私の肩をポンッと叩いて、私に背中を向けて歩き出した。


「ま、待って!っわ!?」

侘助の後を追いかけ、足を動かすとヒールがバキリと音を立てて折れた。バランスを失った私は、盛大に顔面からこけた。その音を聞いた彼は、笑いと呆れが入り交じった表情で近付いてきてくれた。私はよろけながらも立ち上がり、彼の腕にしがみつく。


「お前本当に大丈夫か?って何だこの手は」
「掴まえた!逃がさないわよ!」
「放せ。お前さっき興味ねえって言ったばっかじゃ」
「言ったわよ!でも、う、うた」
「は?」
「あんたがさっき歌ってた歌、もう一回私に聞かせてから帰りなさい!そのぐらい察して男なら!」
「知るか!」


歌ってやるから放せと言われ、私は訝しく思いながらも手を放した。侘助は約束通り歌を歌ってくれた。本来ならそれで終わるはずだったけど、彼は度々公園に訪れてきて、私と話すようになった。私も彼がいないかと、公園を覗く回数が増えていった。彼は水商売なんて親が泣くから止めろと、彼の知り合いの仕事を紹介してくれた。あの母親が私の事で泣くなんて思えなかった。だけど彼の優しさが嬉しくて快く受け入れた。私達はだんだんと仲を深めていき、顔見知りから親しい知人になり、恋人になった。と言ってもどちらとも愛の告白はしていない。それでいいのだと思った。言葉がなくとも、日に日に愛が深まっていくのが感じられたから。

私は昔に思いを馳せながら、噴水の縁に座り、愛しい噴水を撫でた。時間は夕暮れ時で、辺りは朱色に染まっていた。口から溢れ落ちたのは、侘助に対する怒りの言葉でもなく、悲しみの言葉でもなく、あのうた、だった。

「カーラアスナゼナクノ、カラスハヤマニーカーワイ、ナナツノコガアルカラアヨ」

この後はよく分からないので、同じ所を何度も歌った。歌う内に、瞳からぼろぼろと大粒の涙が溢れてきた。

なんで、どうして、
わたしをつれていって、
くれなかったの?
ひどい、ひどいよわびすけ、

歌は嗚咽に掻き消されていく。ずっと握り締めていた正社員昇格通知の紙で幾度も涙を拭いながら、それでも私は歌った。侘助に対して憎しみの言葉なんて言いたくなかったからだ。まだ、彼を信じていたいから。

満足するまで涙を流したあと、私はある事に気が付いた。ひび割れたコンクリートの隙間に何か挟まっている。引っ張り出して、開いてみると、手のひらサイズのメモ用紙で、見慣れた字が紙面に踊っていた。侘助の字だ。そして読み終え、私は侘助の意図をようやく理解した。紙をポケットにねじこんみながら立ち上がり、私はしっかりとした足取りで、自身の家を目指す。もう、大丈夫。私は私の事を片付けよう。来た時とは違い、心は夏の空ように晴れ晴れとしていた。
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