しまった、やられた。朝は晴れていたから完全に油断してしまっていた。駅までそう遠くないし、と走っていたけれど、もう限界だ。適当な店の軒下に雨宿りをする。こんな事ならポアロに置いてある傘を借りて帰ればよかった。バイトから上がる時はまだポツポツ降る程度だったのだ。鞄を抱え込みながらため息を吐く。
とりあえず暫く待ってみて、止みそうにないなら諦めてコンビニで傘を買おう。そう思いながら、傘を差し行き交う人をぼうっと見つめる。こういう時彼氏がいてくれたら、迎えに来てくれるのだろうか。脳裏に浮かぶのはバイト先のあの人で。
目を瞑り、先程別れ際に見た顔を思い出す。こちらの思いなんて、多分ちっとも気付いてないだろうけど、それでも彼が私に笑いかけてくれたり、何気なく優しくしてくれたりするだけで、私はもしかしたらと何度でも思ってしまうのだ。
バシャバシャと水が跳ねる音が聞こえる。誰かも傘を忘れて慌てて走っているのだろうか。好奇心から閉じていた目を開けると、眼前には、今まで思い描いていた人立っていた。傘を差しているにも関わらず、全身ずぶ濡れである。右腕の小脇には青色のビニール袋を抱え、左手には折り畳まれた赤色の傘を持っていた。
「あ、安室さん!」
「良かった、まだ近くにいて。急に降り出したから困ってると思って抜けて来たんですよ。はい、これ傘です。あとタオルも持ってきました」
安室さんも自分と同じように軒下に入ると、左手に持っていた傘を私に渡してくれた。彼の髪の毛からぽたぽたと雫がこぼれ落ち、彼の吐く息は少し上がっていた。よほど急いで来てくれたらしい。袋から白いタオルが取り出される。私はそれを渡されると同時に、少し背伸びをしてばさりと彼の頭に投げやった。
安室さんは、なぜ?という顔をしながら、頭に手を伸ばしてタオルを取ろうとしたので、そのまま両手で彼の頭を掴んでガシガシと乱暴に拭く。(この時ばかりは自分が世の一般の女性より背が高くて良かったと思った。)彼は前屈みになり、されるがままになっていて、水気が取れるまでひとしきり手を動かす。
「私より安室さんの方が酷いじゃないですか!なんで傘を差しててこんなに濡れてるんですか?!」
「慌てて出てきたもんだから、すみません」
ありがとうございます、と顔を上げた安室さんが私の右手に自身の手を重ねて朗らかに微笑んだ。垂れ目の彼だから、笑うと目尻がぐっと下がり、いつもよりも更に幼く見える。私はその顔を見るのがとても好きだった。
「あの、せっかく来てくれたのに怒るような口調になってごめんなさい」
「いえ、良いんですよ」
手を、離してくれないだろうか。彼が私の手の甲をするりと撫で上げる。
思わず掴んでいたタオルをずるりと自分の方に引こうとすると、そのまま安室さんがこちらに顔を寄せてきた。タオルが私の顔にまでかかる。白くなった視界の中で、一瞬だけ世界の音が消え去った。ざあざあと降りしきる雨の音も、通りを行き交う人々の足音やざわめきも、すべて。
彼の顔がゆっくりと離れていく。風に煽られ、タオルが地面にはらりと落ちた。安室さんはそれを何事も無かったかのように拾い上げながら、かたまったままでいる私を見てまた笑った。
「誰にも見えてませんから、大丈夫ですよ」
「そういう話じゃ」
「そうですか、 とりあえず僕は誰彼構わずこういう事をするわけじゃないとだけは言っておきますね、じゃあまた明日。風邪を引かないように」
傘を開いたと思うと安室さんはあっという間に雨の中へ走り去ってしまった。唇にはまだあの感覚がしっかりと残っていて、よろよろとその場に蹲る。心臓の音が、雨の音と混じり合ってとても煩わしい。明日、一体どんな顔をして彼に会えば良いのだろう。
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