キースはいつものように愛犬に催促されて、散歩に出かけた。

天気はいいのに、心はなかなか晴れなかった。

愛犬がキースの顔を伺うように何度も何度もアイコンタクトをとって、元気を出して、としっぽを振る。

その度に座り込んで頭を撫でていると、散歩はいつもの倍くらいの時間になってしまった。

ここ最近ずっとこんな調子で、ヒーロー業に支障はなかったが、ほかのヒーローたちに「大丈夫?」などといって声をかけられて、夕食に誘われて、悩み事があるのか、なんて聞かれたりした。

そこまで自分は分かりやすいだろうか、と内心しょんぼりしながら、私的な席を設けて原因を聞く友人に、キースはその悩みを打ち明けることができなかった。

その原因をキースは知っていたけれど、自分ではどうすることもできなかった。

自分の住んでいるマンションを眺めて、キースはまた足を止める。

顔見知りの住人がエントランスからでてきて、キースに向かって手を振る。それに笑顔と挨拶を返してからキースはそこにしゃがみこんだ。

キースは、部屋に帰りたくなかった。

誰もいない部屋、それが悲しくて悲しくて仕方なかった。

それを知ってか知らずか、飼い主思いの愛犬はキースの顔を何度も何度も暖かくて柔らかい舌で舐めた。


やがて、ここで座り込んでいても仕方ない、とあきらめて部屋に入る。



自分のマンションの部屋の扉を開けると、ふわり、とでていったときと違う匂いがした。

その匂いにどきりと心臓がはねる。

キースの感情につられるようにして、耳をしょんぼりと垂らしていた愛犬がうれしそうに顔を上げてしっぽを振る。

がうん、がうん、としばらくずっと聞かなかった洗濯機の音がして、誰かが部屋の中を忙しく掃除する音がする。

うれしくなって、キースは思わず駆けだした。

雑巾をもって窓を拭いている後ろ姿。その背中にキースは叫んだ。

「ビル!!」

洗濯機の音しかない部屋に響いた声に、ビルと呼ばれた男が振り返る。黒い髪の毛は綺麗にワックスでまとめられている。切れ長の目は茶色で切れ者の印象を醸し出す。
まくりあげたシャツと、仕立てのよい黒いスラックス。おそらく帰ってから着替えていないのだろう。彼の荷物が部屋の隅にまとめられてあって、その中にスラックスと揃いのジャケットがあった。
ワイシャツの上につけているエプロンが少しだけ異質だっった。

キースをみて何かを言おうとしたビルはキースの後からついてきたリードをつけたままの愛犬をみて、くわっと表情を変える。

「足っ!!足を洗え!!せっかく掃除をしたのに!!」

「え、ご、ごめん」

あわててキースは犬をつれて洗面所に向かう。その後ろに愛犬の足跡がくっきり残っているのをみながらちょっとだけ肩を落とした。

しっかりとモップをかけてキースに室内用のスリッパを出したビルは、少しだけ機嫌が悪い。
犬の手足をしゃがみ込んで拭いているビルの隣にキースはしゃがみ込む。
怒っていることに心当たりがありすぎてキースはまた少しだけしょんぼりする。

「……ごめん」

そう謝ったキースをビルはちらりとみて、眉間にしわを寄せた。

「僕が悪かった。君の大丈夫を信じるなんて!」

「え、ご、ごめん!」

強い語調に思わず謝る。

「……大丈夫だって言うから、家事もできるって言うから、置いていったのに……こんなことならハウスキーパー頼んでおくんだった……」

そういって苦々しそうにいうビルに、キースはでも、という。

「……わかってるよ、君が他人にプライベートに干渉されるのがいやなことくらい……。万が一バレでもしたら大変だものね」

「うん」

ぶすり、という表現がふさわしい苦々しい表情に、キースの気持ちは急降下する。
玄関で跳ね上がったテンションはもう跡形もない。


これでよし、と犬の頭を撫でたビルの顔は、いつも通りに見える。だけれど、ビルはさっきから一度もキースと視線を合わせてくれなかった。


「……ビル……」

こっちを向いて、と名前を呼ぶと、キースはびくっと肩を揺らしてそっぽを向いた。

「……向かない!絶対向かない!!ほだされてたまるものか!僕は怒ってるんだ!!」

怒ってる、の言葉に、キースは肩を落とす。

「私はがんばった。そして、がんばった。沢山、人を助けた。そして、助けた」

「……知ってる」

見てたから、と言った言葉は消えそうだった。
見慣れた背中。その背中がふれることを拒んでいて、キースはそれにふれることができない。

「君にも仕事があるのは知ってる。だけど、……寂しかった、会いたかった」

「……なら、電話くらい出ろよ……心配するだろう」

「……寂しいって言ったら、君が心配するから」

ずっと、ずっとかけたくてかけたくて、電話帳とにらめっこをした携帯電話。かけたらきっと、会いたいって言ってしまうから、心配をかけてしまうから、かけられなかった。
電話がかかってきても、とることができなかった。

「……でない方が心配する」

そういいながらビルが振り返る。優しい目がキースを見ていた。そっと手が伸びてきて、キースの頭をくしゃりと撫でる。

「……ごめん」

「いいよ、もう諦めた」

ため息を吐いて、ビルはほほえむ。

「何で君は成長してくれないかな……たった二ヶ月の出張にも行けないなんて。……君が電話にでないから一ヶ月で帰ってきちゃったじゃないか。上司になんて言おう。おまけに洗濯物も洗い物もためてるし、食べ物デリバリーばっかりだし、掃除はしないし、ベッドで犬と一緒に寝るし」

全部、バレてる。キースはちょっと困って首をすくめた。

「……TVで見てると、あんなに立派なのにな……」

そういいながらキースの髪の毛を梳くその手は優しい。

ビルはキースの傍にずっと居てくれる。もし、キースが一人で生活できるようになったら、ビルはどこかに行ってしまうんじゃないか、とキースは思う。

何での答え。君に、そばに居てほしいから、という言葉は飲み込んで、キースはそっと手を伸ばす。
されるがままのビルを抱きしめると、整髪剤の匂いと、優しいコロンの香りがした。

「おかえり」

ちょっとキースより低いその頭の上から言うと、腕の中でビルがあきれたようにため息を吐く。

「……ただいま」


この言葉を聞けなくなるなんて、キースには考えられなかった。だから、ずっと甘えてしまう。
でも、本当にキースが欲しいのはそんなものではないことをキースは知っていた。
でも、今はまだ、キースにはその言葉だけで十分だった。

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