式の案内を頼りに森を抜けたところで弓を置き忘れてきたことに気付いた。
あの弓が使い慣れていることは確かだが、戦いに使うためのものだ。所詮は消耗品、替えはいくらでもある。
式はまだあるし、戻ってきた分もあり特に無防備なわけではないがいつも使っている武器が手元にないのは不安だと、何よりあちこち擦り切れたこの姿で手ぶらで帰還することに抵抗がないわけではなかったが、命あってのたまものだ、と自分に言い聞かせた。

「探したんですよ、静司様…どうされたのですか…?」

自分の姿を見て駆けよってきた付き添いのものに、面白いものを見かけてね、と一言告げると何か言いたそうな目でこちらを見たが、彼はそれ以上言及しようとはしなかった。

「…ここにはもう用はない」

そう言うと彼はすぐに車を用意しますと言って駆けて行った。
ふ、と手の甲を見るとそこにはあの妖怪が落とした血が乾いて貼りついていた。
舐めると、あの妖怪がまとっていた香と同じ芳香がした。
あれは香などではなくあの妖怪そのものの香りだったのか、と納得してから、それがあの妖怪の鼻血だったことを思い出す。
吐き気が催したが、ここで吐いては自分が何かに負けるような気がしてこらえる。
本当に、調子が狂うと呟いて、あの妖怪が消えた空を見上げた。




的場の本家には表札の結界以外に人為的に張られた結界が二重三重に取り巻いている。
妖怪退治の的場の本家ということもあり、下級の妖怪などは端から寄り付きはしないのだが、そこには許可されない人間も、そん所そこらの妖怪では無傷では入れない仕組みになっていた。
魔封じの陣…たとえ出来が悪かったとしても自分が書いたものだ。生半可な威力ではないはず。それを受けて無傷だったあの妖怪ならこの結界も超えてくるのだろうか、と考えその考えをはねのけるように首を振った。

案件は、あの妖怪についてだけではない。

結果として、実のない話をなってしまったが、的場としての重要な案件として無理やりあの田舎町に行ったのだ。その分無理に横によけた案件が山のように積んでいることは想像に難くない。
その内に面白い話などほとんどないことは今までの経験上からも明らかだ。
それを思うと溜息が洩れるが、表、で溜息をつくわけにはいかない。

面倒な話だと思いつつ自分にあいさつに来たという客人を迎える笑顔を顔に張り付けた。




「ちょっと出かけてくるよ、」

そう横にいる人間に声をかけると、彼は今すぐ準備いたします、と一歩下がった。
溜まっているとはいえど、そうそう面白い話があるわけではない。そのほとんどが指示さえ出しておけば片付く問題だ。
かといって家の中にいるだけではつまらないので、こうして適当に仕事を選びだしてたまに外に出ることにしている。

先日妖怪に飛ばされた式の補充もしなければならない。

「静司さん」

後ろから少ししわがれた女性の声がして振り返ると、そこには自分の祖母である女性が立っていた。

「どうしましたか?おばあさま」

笑顔で答えると、彼女は自分の上から下までをわざとらしく見て舌打ちをした。

「的場の頭首ともあろうという方が、そのような格好でお出かけになるとは。…これだから、どこの馬の骨ともしれないような尻軽女の産んだ子は」

聞きなれた言葉に適当に微笑んで、言いたいことはそれだけですか?と聞くと彼女は言いたいことを言って少し留飲を下げたのか、顎を突き出して再び嫌味を言い始める。

「この間、その目を狙う妖怪がいると大騒ぎして出て行ったのに、手ぶらで帰って。さらには弓もなくして、幾つか式も飛ばしてしまったそうじゃないですか。貴方はだいたい…」

少しアルツハイマーが入り始めたのではないかと思われるこの女は、静司が犯した失態はけして忘れないくせに、同じ嫌味を幾度となくいうようになった。
ぼけ老人め、と心の中で呟いて、その内とは裏腹に笑顔をはりつける。
彼女の一人息子である父親の面影を残さない自分は、彼女にとって目の敵でしかない。

「父のように立派な頭首になるよう、努力します」

いつもと同じ言葉で毎度変わらない嫌味を切って、自分は仕事があるので、とその前を横切った。

くだらない、地位。くだらない、血のつながり。



「…本当に、くだらない」


そう呟いて、番傘を手に取った。

門の中では、息が詰まるが、外では気をはらなくてはならない。
でもそれは、自分にとって門の中にいるほど苦痛ではない。死と隣り合わせの緊張感はむしろ心地よいものでもある。

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