「いい目じゃの」

ふ、と白くて消えそうな輪郭が笑みの形に歪められた。

「…何を…」

頭の中を宙に浮かぶ眼球がよぎって身を引く。

「ふふ、そなたの目、妾に譲ってはくれんかの」

そっと弓をよけている方とは逆の手が左目をなぞった。

「触るなっ!!!」

反射的に、持っていた懐刀をひきぬき、切りつけるようにして飛び退る。

あまりに当たらない攻撃から、そこにないのではないかと怪しんでいたのだが、ふわりと揺れる髪の毛がひと房切れて、きらきらと光の粒になって霧散した。

「おぅ、おぅ、危ないではないか小童。ふふ、よい目じゃ、よい目じゃ。その目、そなたが死んでからでもよいのじゃ、妾はその目がほしい」

妖怪は切れた髪の毛を一瞬心配する素振りを見せたが、すぐにその顔は笑みに取って代わり、ケタケタと音を立てて笑った。

「何を、…」

弓を手放してしまった今、遠距離でこのよくわからない妖怪を攻撃するすべがなかった。

「そなたの目に、惚れたと言っておるのじゃ。ふふふ、そう気をはるではない。なぁに、生きている間は眺めるだけにしておこう。その瞳、もっと近くで見せてくれ」

ふいっと首が伸びるような動きで近づいてきた妖怪に腰が引ける。

「怖がるでない。ただそなたが他のものにその目をやらんと約束するだけでいいのだ。妾にその目を譲ると約束するだけでいいのだ。ほうれ、そう怖がるな怖がるな。見れば見るほどよい目じゃの。ほっほっほ」

傷つけようとするそぶりはないものの、目をくれという妖怪に背筋に悪寒が走って幼いころから植えつけられた恐怖で足が竦んだ。
思わぬ妖怪の強さと相まって、体が無条件に逃げを打った。

「これ、小童!そう走ると危ないぞ!」

木々をかき分けて走るその後方であの妖怪の声がした。
人ならば耳障りがよいと分類されるだろうその声は、今は恐怖をあおるものでしかなかった。


無我夢中で駆ける。


こんなに妖怪から逃げるようにして走ったのはいつ振りだろうか。





(代々的場家の頭首は、妖怪に右目を狙われるのです。)


(誠司さんも気をつけなさい。)


――みぎめが、やけるようにいたい。――


(誠司さんは、頭首になられるのですから。)


――たすけて、だれか、たすけて、――


植えつけられた恐怖がよみがえる。




「あっ!!」

がらり、と足元が音を立てる。

しまった、と思った時には時すでに遅く、ふわりとスローモーションのように景色がコマ送りになり、気ばかり競る手が木の枝をかすめた。
深い谷が、目の前にぱっくりと開いて、下の方にごうごうと流れる濁流が見えた。
先日からの大雨で水が出ているのです、と説明していた運転手の言葉を今更のように思い出し、目を閉じる。

的場の頭首として妖怪に追われて崖から落ちるなどという汚点を残すことに屈辱を、一瞬で叩かれる陰口とそれを吐く人のことを思い浮かべた。

加速していくと思っていたその速さはふわりと停止した。


「だから危ないと言ったじゃろうに」


真上から降った声に目を開けると先ほどの妖怪が自分を抱えて滞空していることに気付いた。

妖怪に、助けられたという事実に目を見張る。
この妖怪は、このまま自分を連れ帰って食うのだろうか。
その恐怖に身がすくむ。食われるくらいなら、濁流にのまれて死んだ方がまだましだったように思う。

すいすいと景色が変わって、妖怪は自分をどこかに運ぶ。

「どれ、そなたはどの町から来たのだ。颯のところかの。そなたは妖怪退治の血筋らしいからの」


はやて、というのが何を指すのか、としばらく考えて、ひょっとすると、目をくり抜かれた人の名前ではなかっただろうかと、薄れた記憶をさらった。
空を駆けるその動きは、不可思議なほどに滑らかだった。
当たりの景色からその高さが尋常ではないことがわかっていたから、手に持った刀で切りつけることも、符を発動させることもできない。
町のことを聞いたということはこの妖怪は自分を町に帰すつもりなのだろうか?
妖怪は信用ならない。
そんなことを考えながら、少しでもチャンスができたら切りつけてやろうと刀を握った。

ぽたり、と手に何かが落ちたことに気づいてそこに目を向ける。
そこに落ちたのが血だということに気づいてぎょっとして、落ちてきたであろう上を見上げ、言葉を失った。

「………」

「…すまぬ。つい近くで見ると興奮が…」

あろうことか鼻から血を垂れ流す妖怪は自分からその顔を隠す様にそっぽを向いた。

その瞬間、恐怖よりも呆れが勝った。
なぜ鼻血。よりによって鼻血。

突然それは急降下を初めて木々の間のけもの道に自分を置くと、顔を隠したままそそくさと離れた。

「…町はあっちじゃ。そなたなら迷わんと思うが、迷ったら妾を呼ぶがいい。…とんだ失態じゃった。このことは忘れるのじゃ」

唖然とする自分を残して、その妖怪は一瞬にして消え去った。

「……なんだったんだ…」

こわばっていたのが嘘のように、肩の力が抜けていた。

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