黒い髪の青年はその腕を人差指でトントン、と二度叩いた。
これは話を聞け、という合図だということを長い付き合いの間に少年は了解していた。その話の内容は説教であることが多かったが、彼の人生の中で大切なことを教えてくれるのはいつもこの青年だった。
自分は親に見捨てられた。どうやらそれが青年のせいらしい、ということを皐月は知っていたが、それで青年に当たり散らそうとは考えたことがなかった。
そうしなかったのは彼も被害者の一人だということを知っていたことと、もうひとつ。彼が、皐月にとって唯一身内や、親と呼べるものだったからだった。
『……イギリスに、行くのか?』
静かに吐き出された言葉は、自分に対する確認の問いかけだった。
青年は自分の目線より少し高い位置に静止して足を組んでいた。
それはちょうど机の上に当たり、非常に行儀の悪いことこの上ないが、彼は「どうせ、お前にしか見えないのだから」といってがんとして動こうとしなかった。面白がってストーブの上に座っている時など、暑そうに見えて仕方ない。
彼は、自分の意識の中に住んでいる。
おおまかなところで幽霊だと思っておけば問題ない、と彼は言った。その彼はわけあって自分に取り憑いていて、こうやってプカプカ浮いている時は自分だけだけその姿を見せていて、実体はないのだという。
詳しいことは皐月もよく知らなかった。伊月はそれを皐月に教えてくれなかったし、真相を皐月に教えてくれそうな人物は伊月意外に居なかった。
「僕は行くよ。伊月」
彼はそう言うと、そう、と軽く頷いた。
『ねぇ、皐月、これだけは言っておくよ』
いつになく真剣な彼の表情に皐月は崩していた正座をただした。
『間違いなく、また戦争が起こる。これはカンじゃない。根拠は君に言うつもりはないけどね』
そういった彼はふい、と視線をそらした。
『……君が、これに飛び込んでく義理も何もないのだけど、それでも、君はこの家にずっといるよりはその中に行く方がいいと、そう思うのだろう。』
確信めいた疑問形で皐月に問うた青年は、いつもとは違う表情をしていた。
「……行きたい。ここを出たいのも、勿論あるけど、それよりも伊月が見て、聞いて、学んだことを僕も体験したいんだ」
『……そう、それなら、反対はしないよ』
そういった伊月に皐月はありがとう、といった。
『礼を言われるようなことは、何もしてないけどね』
「伊月がいてくれたから、俺はこうして生きていられる」
そういった皐月を伊月はどこかもの言いたげな目でしばらく見ていたが、溜息を吐いて、そう、と一言答えた。

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