「であるからして……すなわち、」
教諭が黒板に石灰をこすりつけていく。そうすることによってつらつらと書き上げられていくのは「この世のことわり」だ。
教諭は自分が描く文字を一心不乱に読み上げる。
彼の世界には、あたかも彼の一挙一投足を注視している学生が存在していないかのように思われた。
彼の世界は彼が会話している黒板と石灰と、彼が描き出すこの世のことわりだけで成立していた。
伊月にとっては、ここに自分が居て、彼を眺めていることが真理だったが、ひょっとすると彼にとっては違うのかもしれない、と伊月は意味のないことを思った。
あと10秒。伊月は自分の両親が自分に買ってくれた1秒の狂いのない時計を見つめた。秒針は9をさしている。しかしながら、ここで時を刻む音がこの時計よりも5秒早く進むことを伊月はしっていた。
こういったものは、それを共有するもの同士で一致していれば問題が起きないのだ。たとえそれが兵庫県明石にあるロンドンを基準とする「日本標準時刻」とやらより遅れていようが進んでいようが問題にはならない。ここは世間から少し離れた閉鎖空間で、特に5秒なんてものは誤差の範囲だ。

誤差、なんて便利な言葉だろうか。

伊月は隣でついには机に額をくっつけてしまった隣の席に座る友人にちらりと目をやった。
無機質なチャイムが時をつげた。そんなものがあったのか、というような表情で視線を上げた教諭は、実に80分ぶりに目の前にいる学生たちの存在を認めた。本来は授業は90分なのだが、教諭が10分ほど遅れて来たために授業は80分となった。ほど、というのも便利な言葉で、60秒未満ならその時間を誤差の範囲にしてしまう。
しかしながら誤差は誤差でも、10分は誤差には入らない。その違いはおそらく時間の長さによる差というよりも90分という時間を締める割合の問題だったり、それが5秒進んだ時刻を”狂いなく”刻むチャイムと言う名のこの空間での標準時間から逸脱したものであるからだろう。
なにやら口の中で告げて、そそくさと逃げるように教室から出ていった教諭を見送ってから、隣の友人を揺り起こした。
「……ノート、」
友人の第一声に苦笑しながら、まぁいいか、と自分のノートを差し出す。
がたがた、と椅子を引いて背伸びする周囲に見えるのはやはり眠気だ。

どこいくー?
今から教職ー。
あーそっかー

そんな会話がきこえて、そういえば、と伊月は友人に向き直る。
「お前、これから教職じゃね?」
優に2、3ページを越えるノートをその場でうつしはじめた友人に言葉を投げかけると、どうやらそんなことは頭の端にもなかった友人は、げ、と呻いた。
「いいからそれもってけよ。」
「ありがと。」
あわただしく鞄に筆記用具とノートと、分厚い本を押し込んで、じゃ、といいながらかけていく友人を見送って、さてと、と伊月はつぶやいた。


そういえば、今日は五時から卵のタイムセールだった気がする、と考えた。早く、行かなければ売り切れてしまう。
一人暮らしの大学生の懐具合はみんな似たり寄ったりで、とびっきりに安いものとか、皆が買うもの、というのは限られていて、卵がその内のひとつだった。
そんな御託を他所において、かばんを肩に引っ掛けて、伊月は自分の自転車がおいてある場所まで走る。鍵を外して、勢い良く学校の敷地内から飛び出した。
信号は青だった。何の問題も無いはずだった。
飛び込んできた車を見て、ブレーキを引いた。
一瞬のことで、気がつけば、終わっていた。
血だまりの中に、自分が居た。
痛くて、痛くて、仕方なかった。

死にたくない、と思った。死にたくない、と、それだけだった。外部の、すべての状況が見えなくて、聞こえなくて、世界にひとりきりのようで、寂しかった。
一人に、なりたくなかった。

たすけて、と、言ったと思った。

そこで、終わりだった。



サリヴァンは、目を開けた。
暗闇に、目がなれるまで目を開けていて、月明かりが認識できるようになった所で廃屋のコンクリートにもたれかかって寝ていた。伊月は、こんなところでは生きていなかった。もっと、温かい布団で、晴れた日に干して、雨が降りそうになったら、学校から飛んで帰って、そうして、ふかふかにした布団で寝ているはずだった。
さっき、伊月が死んだのが事実だったのか、それともただの夢だったのか、サリヴァンにはわからなくなってきた。
そして、どうしようもなく寂しかった。
手が震えだして、サリヴァンは自分の手を押さえた。
自分の手はこんなに冷たかっただろうか、と思いながら、布団代わりに身体にかけていたコートを引き寄せた。
「……寒いのか」
誰かの声がした。誰だった、だろうか、と考えながら視線を巡らせた。
暗い、影の中に、闇色の瞳が二対浮かんでいた。綺麗な顔だと思う。そうだ、彼の名前はクロロだ。クロロ。心の中でその名前を反芻して、
「いや、少し、起きてしまっただけだ。起こしたか?」
いや、とクロロが答えた。それが本当か嘘か、サリヴァンにはわからなかったが、取り敢えず、誰かがそばに居ることに安堵した。
「……クロロ、隣にいっていいか」
クロロが瞬く。それから、返事するよりも先にクロロが立ち上がって、サリヴァンと同様にかけていた服を腕に引っ掛けて、サリヴァンの隣にやってきた。
「これで、いいか」
そう、距離を置かない場所に座って、クロロが言った。それに、急に気恥ずかしくなってサリヴァンは首を縦に振るだけで留めた。
隣の気配を感じながら、サリヴァンはもう一度目をとじる。
今度は、どんな夢を見るのか。そんな不安を抱きながら。

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