クロロは、すぐに見つかった。騒動を知らない様子のクロロは、サリヴァンを見て少し驚いたような顔をした。
「どうした、」
クロロが、何の変化も、血にも濡れていないことを夜目の効く目で確かめてから、クロロにしがみついた。
「逃げるぞ、クロロ、」
「何があった、」
「早く、逃げないと、」
「逃げるって、何から」
「なんでもいい、なんでも、だ、とにかく、逃げないと、」
サリヴァンが、そう言った時だった、後ろで、物音がした。それと同時に、微かに鉄さびのような生臭い血の匂いがして、サリヴァンは後ずさった。
「逃げるって、どういうことだよ」
さっきの少年が立っていた。サリヴァンの様子を不審に思ったのか、それとも心配したのか。いや、誰かが、あの中の誰かが、破裂したのだ。それで、助けを呼びに来た。指先が冷たくなるのを感じた。
「医者を、呼びに行くんじゃなかったのかよ」
「医者?何のことだ、誰か病人が、」
言いかけたクロロの腕を強く握る。クロロが口を閉じた。
「見捨てるのか、お前、みんなを、見捨てる気なのか?!」
この、なんでもありな、無茶苦茶なこの街で、純朴で、正義感の強いこの少年のことをサリヴァンは好いていた。
しかし、この時にはその性格はサリヴァンにとって恐怖でしかなかった。この少年は絶対に、今のサリヴァンの考えを認めないだろう。
「助けて、くれるんじゃないのかよ、」
一歩、一歩、その姿が近づいてくる。サリヴァンは、クロロのナイフをポケットから抜き取った。それに気づいたクロロが声を上げようとしたのを骨が折れそうなほどに腕を握って制する。
少年が走りだそうとした瞬間に、サリヴァンは手にしていたナイフをその少年の額に正確に投擲した。
鈍い音がして、少年が、後ろに吹き飛ぶ。
「おい、」
「逃げるぞ、」
「ナイフ、」
「触るな、後で、新しいの、盗ってやるから、だから」
納得していない様子のクロロは腕を引くサリヴァンの足を止めるような足取りで、ついていく。
クロロは、サリヴァンがさっきの少年をかわいがっていることを知っていた。だからこその動揺だったかもしれなかった。
ぐっと、さっきまでされるがままだったクロロがサリヴァンの肩を掴んだ。そうして、前に進もうとするサリヴァンの動きを止めて、クロロに向き直らせる。薄暗くなった藍色の空に、星がまたたきはじめていた。月のない、夜だった。
「落ち着け。きちんと、話せ、」
クロロが、センテンスを区切ってサリヴァンに言った。何か、話そうとして、呼吸が乱れる。自分の中で、自分のものでないような恐怖が沸き上がってきて、それがサリヴァンを侵食していた。
「ウィルスだ、」
吐き出してから、それが、これほど取り乱す必要のない恐怖のように感じて、困惑した。
目をとじる。そして深呼吸をした。
「何処かの実験所のアンプルを、割った奴がいた。今朝のことだ。それが、死ぬ直前に、被験者の身体を膨張させて、破裂させることで、体液を周りに居る人間に浴びせて、感染させるタイプのものだ」
「……それと、逃げることとの関係は」
「まだ、この情報は上には伝わっていない。伝わったら、上はこのエリアを武力封鎖するだろう。その前に、逃げないと、手遅れになる」
「何処まで逃げるんだ」
「……何処か、どこでもいい、ここの、管轄外にとにかく逃げないと、此処に閉じ込められて殺される」
クロロは、それ以上何も言わなかった。彼は聡い人間だった。誰が、かかって、誰がかかっていないかなど、判断できるはずもなく、封鎖される前に、噂が届く前にここを抜け出せる人間など、クロロとサリヴァンを除いて居なかった。
「……いいのか」
クロロが聞いた。その意味を、サリヴァン自身が十分にわかっていた。
サリヴァンは、あそこに集まった子どもたちに対して、責任があると言った。そう、思っていた。それを、捨てることになると、放棄することになると、そういう意味だった。
足元から、罪悪感と、恐怖が這い登ってくる。
カラカラに張り付きそうな舌を、サリヴァンは動かして、硬直する喉から、声を絞り出した。
「……死にたく、ない、んだ、」
クロロが目を見開いた。頬を伝うぬくもりの感触で、サリヴァンは自分が泣いていることに気づいた。そして、恐怖の原因を、知った。
死にたくない、と限りない恐怖を抱いているのは、「伊月」だった。伊月が死に怯えている。そして、泣いているのは、伊月だ。
そして、伊月は、サリヴァンだった。
「お前にも、死んでほしくない」
クロロにそう言いながら、胸が曇っていくのを感じた。一人で背負うには、あまりに重かった。サリヴァンの弱さだった。だから、クロロを巻き込もうとした。
クロロは驚いたように息を飲んで、それから、掴んだ肩を力強く惹きつける。後頭部をクロロの手が掴んで、顔が、温かいクロロの首筋に押し付けられる。サリヴァンは、自分が抱きしめられているのを感じながら、息を飲んだ。
「……、サリヴァン」
掠れた声で、クロロが言った。間近で囁かれる声を聞きながら、クロロのぬくもりを感じて、サリヴァンは肩の力を抜いた。
「おれは、死なない。君のことは、おれが、守るから」
だから、逃げよう、と、クロロは言った。
サリヴァンには、クロロが何処まで知っているのかわからなかった。何を考えているのかもわからなかった。それでも、彼が共犯者になってくれるのだと、そのことだけは理解出来た。
それが、とてもうれしくて、罪悪感で胸が痛むのを感じて、また、涙を流した。

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