門から一歩踏み出したところで、いつもとは様子が違うことに気づいて、辺りの様子をうかがう。

ふわり、とあの香りがした。


「ひさしいの。わすれものじゃ」


大柄な模様の着物がはためいて突如としてあの妖怪が顕現する。
彼はふわりふわりと金色の髪をなびかせながら首をかしげて弓を差し出した。

「ボス…!」

慌てふためく部下には目もくれず、妖怪は腰につけた弓に目をやる。

「なんじゃ、替えのものがあったのか。まぁ良い。そなたの式のいくらかは妾の気に当てられて消滅してしもうたようでの。申し訳ない。どれ、怪我はなかったかの?道には迷わんかったかの?」

慌てる部下を手で押しやって、門の中におしいれた。
この妖怪相手に足手まといはいらない。
金色のまつげに縁取られた目を三日月形に和ませてそのオッドアイの瞳でその妖怪は楽しそうに自分の目を覗き込んだ。

「ふふふ、やはり良い目じゃの。ふふふ。それ、受け取りゃ」

妖は弓を的場の胸に押してける。
その一瞬の間に握っていた懐刀を抜き、首のあたりを一閃する。

「ほっほ、生きがよいのぅ、若いのぅ。しかしながら礼の一つくらいあってしかるべきだと思うのじゃがの。それ、人間にとって礼儀というものが人間関係を円滑にする基本なのじゃろう」

ふんふん、と勝手に頷く妖怪は傷一つどころか今回は髪の毛一筋すら切れていない。

「貴方は妖じゃないですか…でも礼はいっておきますよ。ありがとうございます」

弓を構えながらそう言うと、妖はその場でぐるりぐるりと宙返りをしてみせる。

「…っ、かわいい奴め…!ふふふ、やはり妾はそなたの目がほしい」

うっとりと頬を紅潮させてもの欲しげにのばされた手に、背筋に悪寒が走った。

「っ、触れるなっ…!」

短く叫んでギリギリとあらん限りの力で引絞った矢を放つ。
妖に効果があるようにと符を取り付けてある矢が、ひゅ、と風を切る。
とす、という音がして矢が妖の肩に刺さった。
妖は自分に刺さった矢を見て、何事でもないかのように首をかしげる。今がチャンスと静司は掌を合わせた。

乾いた音が響く。手ごたえはあった。

「…人ならぬものは連れ帰られよ…」

呪を紡ぐ。いくらこの妖でも、直接呪を打ちこまれてはただではおられまい。
妖が、燐光を帯びる。消滅するか、とじっと目を凝らす。

燐光が次第に退く。その向こうに見えるものに目を見張った。


金色と黒の一対の目が、こちらを見ていた。
翳された掌が淡い光を放って不可視の壁を築いている。

「…このようなもの、妾にそうそう効くと思う方が間違いじゃ。全く…人間とは難儀な生き物じゃ…、思い上がりも甚だしい」

どこからともなく飛んできた蝶が、不可視の壁に当たって吸い込まれるように姿が見えなくなる。

「…、空間をゆがめているのか…!」

呪が遮られて届かなかったことに静司は眉を寄せた。
このままでは、何をしても意味がないに違いない。それでも、もう一度弓を構える。

「…ふむ。しかし、そなたに射られるのは二度目じゃな」

楽しそうにくすくすと笑いながら妖は肩に刺さった矢を無理やり引き抜いた。ぱたた、と血が散ったことから矢じりがしっかりとその体に刺さっていたことが知れた。
――その血は、あの香りをまとっているのだろうか。
ふいに頭に浮かんだ考えを、馬鹿馬鹿しいとすぐに打ち消す。

「…貴方に、矢を当てたのは初めてのことなのですが」

睨みつけながらそう言うと、妖はさもおかしいと言わんばかりに腹を抱えて笑った。

「二度目じゃ。一度は妾はこのはぁとを打ち抜かれたのじゃ。そなたの目によっての」

ちなみにはぁとというのは心の臓のことよ、といって彼は右胸をとんとんと指で叩きながらカラカラと笑った。
…妖と人では心臓のありかが違うのだろうか、というくだらない疑問をしっかりと照準を妖の右胸に向けることで上書きした。
「…そなたの目は、美しいの」

彼はうっとりと金色の睫毛を三日月のような形にして笑う。

「しかし、そなたへ歩み寄るにはまだ少し早いようじゃ。そなた、的場とやらの頭首らしいの。道理で痛いはずじゃ。人にしてはなかなかじゃ。所詮、人じゃがの」

ほっほ、といって、妖は笑って、すいっと静司の目を覗き込んだ。

「…人は、弱い。なにかあったときは、妾の名を呼ぶのじゃ」

「名…?」

妖は、人間に滅多なことで名前を教えたりはしない。
名は、一種の呪だ。それを知られることは、ある意味で人に弱みをさらすことになったりする。だから的場が名前を知る妖というのは、的場の式であるか、それとも的場の部下の式であるか、どちらかだった。

「ふふ、妾とて、そんじょそこらのがきんじょに名前を教えたりはせん。そなただから教えるのじゃ、頭首どの」

ふい、と妖の手が動く。
するする、とその手が宙に文字を描くと、奇跡がきらきらと光って筋となる。

「…伊月…イツキ、という」

彼は、書いた文字にふぅ、と息を吹きかけた。すると文字は陽炎のように揺らいで芳香とともに静司の前に現れる。

「…低級のように、罠にかかったりはせんからの。そなたを殺すことなぞせんが、悪用したらしたで、そなたのまわりに何が降りかかっても妾は知らぬ」

少し戸惑う静司に言い聞かせるようにして、伊月はくつくつと笑いながら言った。

「受けとりゃ。そして、呼ぶといい」

すっと溶けるように文字が消える。


「…楽しみにしておる」


そう言って伊月は一際艶やかに笑ってす、と文字と同じように溶けるように消えた。



「……誰が、呼んでやるものか」

変態め、と口の中で呟いて、手元に返った弓を見た。
わけがわからないには変わらないが、向こうには自分に危害を加えるつもりはないらしい。わざわざ、自分が手を出すこともないのかもしれない。ほおっておけばいいだろう。

そう結論付けて、門の内側に終わった、行くぞ、と声をかけた。

PREV(4/4)=