「朔掩に先生はいないの?」
剣タコが潰れたその手に包帯を巻きながら少年が問う。……いや、もう少年というのはどうだろう。少し青年の域に足をかけたくらい。しかしまだ子供っぽさは抜けていない。彼、利広に会ってからひと月ほどが経っている。修行を始めてからは一週間程。利広は熱心な生徒だった。無茶苦茶な朔掩の指導に喰らいついてくるのだからかなり熱心だ。自分の教え方が決してうまくないことを朔掩は自覚している。
「……いた」
本の項を繰りながら朔掩は答える。この宿には中庭のような空間がある。朔掩と利広の修行の場所はもっぱらここだった。綺麗に掃き清められた庭には小さな樹木が少し植えてあったり、少しの調度が置いてある。二階の回廊からは吹き抜けのようにこの庭を見渡すことができる。だから基本的に人が居ない時間帯に修行は行われることになる。
それは決してそんなに長い時間ではない。両親はこの放蕩息子をそれなりに心配しているらしく、護身術程度は身につけたほうがいいと判断したのか修行は快諾された。
「どんな人だった?」
「ろくでもないやつだった」
「どんなふうに?」
「弟子を奴隷か何かのように扱うんだ」
「好きだった?」
「嫌いだったな」
利広はそれ以上問いかけを続けなかった。朔掩にはそれはありがたいことだった。この先を、聞かれると困るのだ。朔掩は嘘をつくのは好きではない。
だから、どうやって弟子になっただとか、今頃師匠が何をしているかなど聞かれては困るのだ。
師は、朔掩が一人前になった頃、朔掩が自分の手で殺した。
死闘の末だった。
何故か、と聞かれるとそういうものだった、としか言いようがない。恩義もそれなりに感じていた。ただ、結末はどちらかが殺して殺されて、ということしか朔掩には想像が出来なかった。そういうものだったのだ。そういう世界だった。こことは違う。妖魔や何やらが出てきたり物騒な部分はあるが、朔掩が幼少の頃を過ごした場所よりはよっぽどマシだと朔掩は思う。
そういう話を朔掩は利広にしたくなかった。
だから聞かれないことに正直ほっとした。
「巻けたか」
包帯が巻けたかどうかを聞く。利広が無言で手を差し出す。はじめは朔掩が巻いてやっていたのだが、それははじめだけで自分で巻けるように練習することになっている。きっちり巻けていることを確認してからよし、というと利広は誰に言われるでもなく使い込まれた木刀を手にとった。それを見ながら朔掩も木刀を握る。本を開いたまま。
「行くぞ」
朔掩の言葉にきゅっと利広の顔が引き締まった。はじめにこうした時は朔掩が木刀を構えるだけでひどく怯えたのだが(少々、やり過ぎたのだと思う)随分といい面構えになった。
構えた隙を突くように撃ちこむ。拙くではあるが利広は徐々に反応できるようになり、がん、と木と木がぶつかる鈍い音が響く。一撃、二撃、撃ちこんでいく。
基本的に朔掩の訓練スタイルこれだ。朔掩が撃ちこんで利広がそれを躱す。受けきれず身体に当たったりはするが、手加減はしてあるので骨が折れたりはない。それでも痛いものは痛いので、利広は必死だ。
二階の回廊に気配が通る。朔掩は気配に聡いから、宿屋の内部程度ならどこに誰がいるかすぐに分かる。そして、そこから覗いているのが利達だということも視線を向けずとも容易に知れた。
利達は朔掩の修行をあまりよく思っていないらしい。
その理由は知らないが、心当たりならある。もっと良い武芸の師匠などいくらでもいるだろうし、利広がこうして修行すること自体をよく思っていないのかもしれない。
だけれど、それは朔掩ではなく利広と利達が二人の間で解決すべき問題だろうと朔掩は思っていた。
がん、と鈍い音を立てて利広の手から木刀が飛ぶ。
「ここまでだな」
そろそろ宿に入る客が増えてくる頃だ。朔掩が木刀を肩に担ぐ。利広は肩で息をしながら痛ってええと大きな声を上げてしゃがみこんでしまう。
「ほら、立て……薬塗って包帯巻き直すぞ」
「うん!」
飛んでいった利広の木刀を拾い上げて小脇に抱える。利達はもう屋内に入ってしまっている。
いらっしゃいませ、という声が入り口でした。

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