宿屋の朝は早い。朔掩は明嬉に指示されながら食事を作る手伝いをして、部屋を掃除して回った。目が回るような忙しさで、これまでこれをもっと少人数でやってきたのかと聞くと明嬉は首を横に振った。
この間まで従業員が居たそうだが従業員の宿舎が妖魔に襲われたのだそうだった。そこの人が隣町に家族がいて、利広たちの父が渡していなかった給金と遺品を持って隣町を訪ねているのだという。
水に濡れた手でかかれた文字に拙い言葉で大丈夫なのか、と朔掩が聞くと、杖身を付けているから、という返事がかえった。
いくら杖身をつけていようと、それに勝る妖魔がでてしまえば仕舞いだ。きっと、それはわかっているのだろうと朔掩は少しだけ皿洗いする手を止めて俯いた明嬉を見た。
その隣には呪印の刻まれた剣が立て掛けられている。利広のものだった武器は何故か朔掩のものということになっていた。
およそ、利広が貯金か何かで買って、取り上げられるのを恐れて自分のものということにしたのだろう。
お蔭で朔掩は武器を持つことができたわけだったが。
そんなことを考えながら朔掩は最後の皿の水気を切った。
「どこへいけばいい?」
粗方が片付き、目につく仕事もなくなり筆談混じりの会話ができるほどに余裕がでていたので、朔掩は明嬉に尋ねた。
最後の皿を食器入れに仕舞いながら明嬉はそうね、と言った。
「利達を手伝ってあげて。」
それにわかった、と答えて朔掩は立て掛けてあった剣を手に利達のいる店先に向かった。
店先から言い争う声が聞こえて、朔掩は少しだけ眉をひそめて、手にしていた剣を隠すようにしまった。
一方は利達の声だったが、声量は十分にもかかわらず、会話のスピードが早すぎて朔掩には理解できなかった。
店先に出ると赤ら顔の大柄な男が利達の胸ぐらを掴みあげていた。
男は利達の背後から現れた朔掩を見るとにやにやと嫌味な顔で笑った。
「……でもはじめたのか?」
「うちの従業員を侮辱するな!」
知らない言葉であったが、朔掩はそれが自分に対する挑発であることを肌で感じ取った。
男は依然として自分の優勢を信じて利達を掴んでいた手を乱暴に払った。
だん、と利達が壁に背中を打ち付ける。
「金を出して貰おうか。それができないのなら、そいつでもいいぜ。」
嫌味な程にゆっくりな発音だったために朔掩はそれを聞き取ることができた。
向けられた目線は、朔掩にとって馴染み深い物だったので、ところどこと聞き取りづらいところもあったが、朔掩にはしっかりと意味がわかった。
「断る!おまえの…は……なはずだ!」
利達がごほり、と咳き込みながら睨めつける。
勢いがいいのはいいが、それでは解決にならない。
朔掩はこちらに伸びてきた手を見ながら、そう思った。
腕をつかもうとする手の手首をがっしりとつかむ。関節の位置を意識しながら掴むと、その手は一寸足りとて動けなくなる。男の顔色が少し変わった。
それを見ながら利達が息を飲んだ。
朔掩は逆の手が朔掩の顔に向かって飛んで来るのを最低限の動きで避けて、つかんだままの手首で一瞬にして腕をひねり上げた。
わざと痛いようにきりきりと締め上げると、男が情けない悲鳴をあげる。
そうしておいて、朔掩には何をもめているのか、利達がどうしたいのかがわからないので、チラリ、と目線をやった。
ぽかんと口を開けてその様子を見ていた利達が我に帰って、胸を抑えながら立ち上がる。
「お前にやる金はない!出て行け!」
わざと力をかけて、その言葉に合わせて店の外に引きずりだして、わざと通りを通る人に見えるように地面に叩きつける。
「バケモノっ!」
男が捨て台詞を吐いてでていくのを朔掩はどうしたものか、と思いながら見送った。
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