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 帰り道。その角にある家の犬は、誰彼構わずよく吠える。


 四畳半へと帰ってきたのは、もう夜の帳もおりた頃だった。何も変わらない汚れた台所や机、本棚と投げ込まれた猥褻図書が見えるが、この薄く黒をまき散らしたような部屋で何かがもぞりと動くのを感じた。もしかしなくとも、誰であるかは優に予想がつく。それはもう万年床と化した敷き布団の上で、人らしき姿として転げている。

「まったく、また勝手に人の家に上がり込んで……」

 あくまでリズムは崩さず、一定の間隔を置いて繰り返す呼吸音が聞こえた。我が物顔で眠る小津を見ていると、いっそこの四畳半の主が彼なのではないかといった錯覚を起こす。こうして静かに眠っている時ばかりは妖怪のような風貌も息を潜め、そこにいるのは年相応のただの男だった。もぞりと、後ろ暗い感情が疼く。

 ここのところの私はもう、ただの犬だった。それもずっと、待てを強いられている可哀想な犬だ。
 彼に対する気持ちに違和感と共にあらぬものが立ちこめ始めたのは、彼と大学生活を共にし始めて間もない頃だった。常軌を逸した感情であることには早々に気がつき、私の焦りは一種の絶望にも似ていた。しかし絶望も束の間、その違和感に私の次に気づいたのは彼で相違ない。しかしあくまで彼は気づいているだけであり、その劣情を咎めるでもなければ歩み寄るでもなかった。もちろん彼のイエス・ノーも分からないままその場を動くことも出来ず、待てを続けることを余儀なくされている。

 幾度か意識的にまばたきを繰り返した後、彼の意識が夢から引きずり出されたのを感じた。目元を執拗に擦り、布団から上体を起こした彼はまだ片足を夢の中に浸している。徐々に覚醒していくなかで、またあの犬に成り下がった私を飼い慣らす主の目へとなるのを感じた。

「おや、帰ってきたんですね」
「帰ってきたもくそもあるか。ここは私の家だ。」
「冷たいなあ。あなたが帰ってくるのをこうして健気に待っていたというのに。」
「何が健気だ、寝ていただけではないか」

 からからと乾いた笑い声をゆらして、私の劣情をつまみ上げる。まだ布団に入ったままだった下半身を引きずり出し、敷き布団の上で胡座を掻いて座る彼は、何か普段とは違う様相を呈していた。そしてふいに、腹の底で押し潰しているはずの劣情が、喉元まで迫り上がってくるのがまざまざと分かる。
 男にしてはすこし爪の長い指が、私の頬を滑っている。

「そろそろキスのひとつでも、してみたらどうです?」

 右斜めに傾げた首に込められた感情を、私は読みとれない。未だ頬に触れたままの指に、赤くただれるほどの熱がこもっていることしか理解出来なかった。
 主の目を持ち続ける彼は、待ての体勢を解いても何も言わないどころか、糸のように噤んだ口元を僅かばかり上へと持ち上げる。

「据え膳食わぬはなんとやら、ですよ」

 ぼろりと、涙がおちた。何故泣いているのか分からなかったが、愛が通い合ったのならばこれほど嬉しいことはないのではないか。そこに人も犬も変わりはない。
 その傾げた首に手を掛け、こちらへと引き寄せる。すりよるようなキスを繰り返して、何度歯が当たったのかも分からない。しかし彼は、やわく吊り上げた口元から洩れるように笑うばかりだった。
 私は、おまえの犬だ。





レゾンデートルと犬歯
20121230
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