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 斜陽がまるで息をひきとるような速さで群青になる様を、今はカーテンの隙間から差し込む橙で感じている。
 あの時に白昼夢なのだと考えたのは、授業を抜け出して家へと向かう道の途中、ぼろぼろな良牙が立っている姿はあまりにも日常から離脱していたからである。しかしうつろな目で、腹が減ったと言いながら肩口へ体重を掛けてきたことで、さながら陽炎のようにあやうい体が一瞬にして現実味を帯びた。

 彼を連れ込んだのは、正午を過ぎた頃だった。勝手知り過ぎているキッチンから少々の食べ物を拝借し、彼に食べさせる。その咀嚼を繰り返す姿を見ていると、執拗なまでに口元が目に付ついていることに気付き、思わず目を伏せた。



 早乙女家へと分けられた部屋の隅で、壁に凭れ掛かり休息を得ている彼はいつもの闘志を潜ませて、今はごく僅かな寝息だけを見せている。

「寝てんのか?」

 暫くの間、窓際の机に預けていた上半身を起こし、見るからに眠っている彼に声を掛ける。しかし返ってくるのは当たり前のように沈黙ばかりだったが、どこか満足していた。
 腰を上げて壁に凭れた彼の傍へと寄り、その無防備だけを剥き出しにした寝息を止めてしまいと思う。視界が全て彼になるほどに近付けば、肌の焼けた色や深海の色に似た睫の動きばかりを逐一に感じた。頬に手の平を這わせ、なかゆびで赤い唇をなぞる。噎せ返るほどに甘ったるい匂いが、僕から洩れだしていることに気付くこと自体、そう難しいことではなかった。

「……おまえが好きだ」

 シュガーシロップのなかをくぐらせたような言葉は、あまりにも嘘めいていた。あまりに愚直だった。しかしその愚直さも眠る彼には届かないままに、静かに余韻も残さず溶けてしまう。
 僅かに俯いている寝顔をこちらへと向け、愚直をそのまま流し込んでしまうようにキスをした。このまま無防備な寝息も止まってしまえば良いのにと思いながらも、その深海色の睫に縁取られた目が早く開かないものかと焦がれていたのだ。
 ぎゅうと薄いまぶたに力が入るのを見て、その奥の黒目が僕を映し出す様をぼんやりと想像している。

「何の真似だ」
「キス」

 思いの外にその黒目勝ちな目は、水気に富んでいた。そのうるんだ目が不安感を模しているのだと察したのは、今までだらりと垂れていた両手が拒むように僕の腕を握っていたからである。その触れた手からは、微妙な抗いが滲む。表情には、普段持ち合わせている闘志を僅かに引きずり出しているが、眠気が尾を引いている彼の顔には何とも不釣り合いに見えた。

 人より傷の多い肌は、ただれるほどに熱い。はみ出た不安感を指で塗り広げるように頬をなでる。その頃にはもう頭の中では強烈な熱がひしめき合って、端へと追い遣られた正義はちりぢりになってしまっていた。
 うすらと開いた唇をつと拭うと、彼のずれていた視線がこちらへと向く。おやゆびでその薄い下唇をうざったいほどに撫で、何度も合わせるばかりのキスを繰り返した。そのやわい下唇の右端に、じっとりと歯を立てる。不意な痛みに顔を顰めた彼を気にも止めず、ぷつりとやぶけた皮膜の奥からせり出す血を舐めた。あまりにも薄汚れた味がして、目が眩む。
 右端に赤が滲む唇の隙間から覗く粘膜は、より一層赤みを増している。さそわれるように舌を差し込むと、にちゃりとした背徳的な感触ばかりが支配した。気付けば、ふたりで熱にまみれたうすい粘膜だけを隔てるその行為に埋没していたのだ。
 またも目が眩む。病的なほどに、甘く煮詰まった性が匂い立つ。

「好きだ」

 フレア・スカートの微細な揺れのように、あまりにも自然で飾り気のない言葉だった。先刻に眠る彼へと向けた愚直なその言葉は、今度こそ彼のもとへと届く。
 それは僕が使うと、あまりにも嘘に似る言葉のひとつだ。幾度と無く、組んではばらしてを繰り返した人工的な台詞は、頭のなかにはもう姿がない。あるのはシュガーシロップをまといすぎる、その言葉ひとつだけだった。

「好きだ」
「俺は、あかねさんが好きだ……あかねさんが好きなんだ」
「んなこと、とっくに知ってる」

 腕を握る彼の手の平から滲む抗いは次第に消えて、ただ頼りなく触れているだけだった。うるむ目もゆったりと不安感から葛藤へと様変わりし、ただの静かな涙になる。そのか細くなった体を抱き留めるが、あのただれるほどの熱さを感じることは出来なかった。腕の隙間から砂のように逃げてしまう彼が、容易に浮かぶ理由も知っている。
 彼は俯いているままだった。

「好きだ」

 カーテンから差し込む細い橙は、線引きばかりが上手くなる。





隔たりの斜陽
20120312
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