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 目が覚めたときには部屋一杯に、なまぬるい匂いがひたひたに注がれていた。外では不揃いな雨声が、無感情に生死を何万回と繰り返す。
 雨が降っていた。

「……休みで良かった。」

 開口一番は、思わずこぼした安堵の声だった。つい昨日まで指の先まで迫っていた春先の甘やかな気温に懐かしさすら感じる。あの気温は遠退き、指先にはじわりと冷たさが滲んだ。
 この特有の匂いは私の気を縦横無尽に削いでゆき、布団から出ることすら躊躇われるほどであった。布団から腕だけを頼りに、なまぬるい匂いをかき分けてリモコンを探す。しかし、四畳半という狭い箱の中では、目当てのものを見つけるのも容易い。
 電源の入ったテレビでは、天気予報を放送していた。降水確率を表す数字の羅列は、美しい程に百が並ぶ。暫く雨は降り続けるらしい。当分、この私の気を削ぐことに特化した匂いと同居生活をせねばならないのかと思うと、気分は緩やかに下降線を描いた。

 最中、玄関でドアノブが呻る音が響いた。その音には、粗雑な施錠を今にも壊してやろうという気持ちが滲み出ているのだ。犯人はあいつ以外有り得ない。

「何の用だ、小津」
「傘忘れたんで、雨宿りさせてくださいね。」

 扉を開ければ、口角を吊り上げて笑う小津が立っていた。雨に濡れて服は、皮膚にひたりと貼り付いている。寒さで元より悪い顔色は、一層青みを増していた。
 勝手知ったるといった足取りで、四畳半へ向かう。タオルを貸せと五月蠅い彼の顔に、先日コインランドリーで洗ったばかりのタオルを投げつけた。

「降水確率百パーセントだっただろうに。」
「勿論知ってますよ、僕だって天気予報くらい見ます」
「ならば何故、傘を持っていないのだ」

 濡れた髪を無造作に拭き、タオルに埋まっていた表情が顔を出す。その口元に貼り付いた色情に、思わず皮膜がふるりと動揺した。

「分かってる癖に、訊きたいんですか。」

 彼はそれ以上を口にはしなかった。私はなまぬるい匂いとの同居に、彼を招き入れる準備をするのだ。
 未だに外は、不揃いな死が繰り返されている。





下降線とぬるい繭
20110505
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