「ああ。いらっしゃったんですね」

 長い遠征からようやく帰還した彼にかけられた言葉がそれだった。

 少しだけ意外そうに、それでいて何でもないことのように、まるで隣人辺りが訪問した時のような、実にあっさりとした口ぶりで。

 大袈裟な態度で涙ながらに抱き付かれても正直閉口するしかないが、こうも素っ気ないとどこか腑に落ちないのもまた事実。

 それでもその言動はいかにも彼女らしいもので、そう思えば結局苦笑一つで事は済んだ。





「お前は相変わらずだな」

「数ヶ月程度では変わりません。多分数年経っても」

 そう言いながら彼に近付いた彼女は、目前の長身を見上げた。

「…少し痩せました?」

「どうだろうな」

 どちらにしても地に足が付いた日常は久し振りだからなと、彼は整った容貌に皮肉的な笑みを湛えた。

 軍人らしからぬ細い体躯を持つ彼は、だが万単位の戦艦を指揮し、提督と呼称される立場にある。

 彼は今回も昇進を果たし、本来ならば祝福するべき結果なのだが、彼女の胸中は複雑だった。

 それは大勢が流した血の犠牲の上に成り立つものだからだ。
 
 屍を築いた数の多さ、それが敵か味方かで智将か愚将かが決まる。

 勝敗によりその数は夥しく変化するものの、すなわち可能な限り敵の、時として味方の命をも屠ることが、軍人の、彼の仕事なのだ。

 そう理解していながら彼の無事を願って止まないのだから、随分勝手な話だと彼女は自覚もしている。

 そしていくら懊悩したところで詮無いことだとも。

 人は自分の手の届く範囲においてのささやかな幸せを望む。

 殆どは大切な人を守るだけで、その無事を祈るだけで精一杯なのだ。

 万人の幸福を願うことはできても叶えることはできない。

 だからこそ考える。
 
 理解した上で全てを背負いながら戦い続ける彼の強さと、その結果、彼らの帰りを待ち侘びる大勢の人々が遭遇しうる悲劇について。

 それは敵味方の区別なく、誰もが同様の思いを抱き、等しい立場にあるのだと。





「どうした。あまりの感激に声も出ないか?」

 冗談交じりにそう声をかけて彼女を腕の中に抱き取ると、馴染みのある仄かな香りが彼の鼻腔に届いた。

 それは彼に帰って来たのだという実感を伴わせ、普段は感慨めいたものとは縁遠い彼にもさすがに込み上げるものがあった。

 少し宜しいですかと言う彼女に従い、身を屈め更に顔を近付けると、不意に伸ばされた両手が彼の頬に触れた。

 やや冷たい指先は顎の輪郭をゆっくりと辿り、頚部で動きを止める。

 彼女の眼差しは彼に真っ直ぐ向けられているものの、久し振りに再会できた想い人を愛しむという雰囲気ではない。

 どちらかと言えば冷静に体温や脈拍を確かめているような仕草に、それまで黙って見ていた彼は眉をひそめた。

「一体何をしている」

「良かった。幽霊ではないようですね」

 彼女なりのブラックジョークなのか、あくまでも真剣なのかは判別が難しいところだ。

「…そう簡単に死んでたまるか」

 彼の苦情を微笑で受け流しながら、彼女の繊手は今度こそ優しく彼の頬を包み込む。

「ご無事で何よりです」

「それを最初に聞きたかったのだがな」

 それでもその一言にこそ彼女の本心があることを承知していた彼は、静かに笑みを返すと彼女に口付けた。





 410年もののワインで乾杯し、彼女の作ったシュニッツェルを久々に味わう。

 本来なら積もる話もあるべきなのだろうが、二人は食事の合間、時々思い出したように語り合った。

 こうしていると、命懸けで戦線を掻い潜る日々が夢のように思えてくる。

 星々よりも遥かに眩しい光の粒子が飛び交う戦場の喧騒。

 将兵たちの緊張に漲る声。

 彼らの命を預かる責任。

 死と隣り合わせで戦術を展開する高揚感。

 いつの間にか心の隅に追いやられた僅かばかりの恐怖心。

 そして永遠の夜の中でふと思い出す、彼女の面影。

 穏やかで優しく進む今の時間は、彼にとって何にも代え難い大切なひとときだった。

 彼は食後もグラスを離さずにいたが、元々酒には強い為、思考能力にはたいした影響を与えていない。
 
 それでも今夜は気分良く酔うことができそうだ。





「そう言えば、お前からは聞いたことがないな」

 目前の想い人よりもザッハトルテを切り分けることに集中していたらしき彼女は、ケーキナイフを片手に小首を傾げた。

「征戦する軍人を見送る恋人や妻にありがちな言葉だ」

 そのような話を自分から言い出したことが彼は不思議だった。

 酔ってはいないと思っていたが、多少は酒が回ったのかもしれない。

 俺は彼女の口から聞きたいのだろうか?

 使い尽くされた陳腐な言葉を、だが切実な想いがこめられたその言葉を。

 どうか無事でいて欲しい、必ず帰って来て欲しい、いつまでも貴方を待っていると。

 トルテをそれぞれの皿に取り分けた後で、彼女は彼の隣に座った。

 彼のグラスを引き上げ、香ばしい匂いが立ち昇るカップを皿の傍に置く。

「星々の海で戦い続ける貴方から、約束を貰うことはできないでしょう?」

 笑顔も涙も見せることなく彼女は言った。

 先程の体温を確かめる時のように、真摯な眼差しを彼に向けて。

 諦観めいた彼女の言葉に憤りは覚えなかった。

 寧ろその潔い姿勢に彼は惹き付けられた。

 そこには彼女の思慮深さ、苦悩や葛藤、彼に対する愛情が確かに存在している。

 感情的な発言や泣き縋ることだけがそれらを推し量る指針ではない。

 戦いがもたらすあらゆる事象について彼女と語り合うことは最早無意味だ。

 互いの立場は互いに理解している。

 勝利は最も望ましいことではあるが、生還することも同様に大事だと彼は改めて自覚していた。

 それは彼女の為でもあり自分の為でもある。

 生きてさえいれば彼女を悲しませずに済むだろう。

 そして生きてさえいれば再起の機会はいくらでもあるからだ。





「…いいだろう。お前のその覚悟、これからも打ち砕きに来るとしよう」

 自信と矜持に満ち溢れた彼の言葉が彼女の心に響いた。

 たとえそれが必ず果たせる約束ではないとしても。

「お会いする度に安堵できるかもしれませんが、お別れの時にはまた新たな覚悟が必要になります」

「自分だけがそう思っているとでも?」

 その声に微量の棘が含まれていることを悟った彼女は、何かに気付いたように目を瞠った。

 感傷とは程遠い彼の本心が聞けたような気がする。

 立場は違っても思うことは同じ。

 素直に謝罪した後で、相思相愛ですねと彼女は嬉しそうに笑う。

 今更何を言っていると彼は呆れたように溜息を吐く。

「つまり俺は必ず戻らねばならぬ、ということだ」

 そう簡単に死んでたまるか、と再び彼は言いながら不敵な笑みを見せた。

 日頃から抱いている矛盾を伴った厄介な感情。

 それすらも払拭してくれるような彼の強さに彼女は惹かれた。

 幾多もの命を理不尽に奪う戦いを憎む一方、それに殉じる覚悟で皆を率い、その戦いに身を投じる彼を愛している。





 月明かりに照らされて煌く水色の虹彩が綺麗だ。

 淡い色に縁取られた漆黒の瞳孔に自分の影が映り込んでいる。

 儚く繊細に見える一方で、強靭な意志を宿したその双眸をずっと見ていたいと思った。

 それでも今は目を閉じて彼を抱き寄せる。

 両腕を伸ばして、柔らかな銀髪に指を絡めて。

 肌のぬくもり、熱を帯びた唇、深みのある低い声、幾度となく確かめた力強く響く鼓動。

 どうか貴方が消えてしまわないように。

 せめて今だけは。

 できることならこれからもずっと。





 大切な人を残し、銀河の彼方で命を賭して戦いに望むこと。

 愛する人との逢瀬の度に、永遠の別離という岐路がある可能性を認めること。

 決死の勇気と相当の覚悟。

 消え行く者と残された者。

 望まぬ死と喪失の生。

 虚無と絶望。

 戦渦に対峙した二人を分かつ深い隔たり。





 過酷な事実を自らに科せられたことで初めて自覚する痛みがある。

 未だ終わりの見えない戦いの業火は容赦なく彼の全てを奪い去った。

 星々の瞬きをも掻き消すような、熾烈な破壊の光と共に。

 身を引き裂かれるような哀しみや辛さを覚悟していたつもりで、結局私は何も解ってはいなかった。

 大切な誰かを失った実感も得られないまま、彼もまた、大勢の人々に同様の苦しみを抱かせてきたのだと改めて思い知る。

 けれど、それでも。

 私は貴方に生きていて欲しかった。

 幾つもの命を犠牲にしても、この世界が滅びても、貴方だけは私の傍にいて欲しかった。

 冷たい情熱を秘めて、静かに燃える水色の双眸を見ることは、もう二度と叶わない。

 貴方の鮮烈な記憶だけがいつまでも私を苛み、その幻影に囚われたまま、今夜も幸福で残酷な夢を見る。



20080908



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