長かった「海外出張」が終わり、ようやく帰宅した私を迎えたものは、ソファの上、あられもない格好で眠る彼女の姿だった。
なだらかな肩からはキャミソールの紐が落ち、腰で履いたショートパンツからは臍が覗いている。
そんな薄着で風邪でもひいたらどうするんだ。
帰宅早々頭を抱える羽目になるとは思わなかった。
久し振りに会えたにもかかわらず、感動の再会とは程遠い現況に私は気落ちした。
周囲に彼女の履物は見当たらない。
その代わりとでも言わんばかりに、ソファの下には私が貸した文庫本が数冊散らばっている。
あれだけ言ったにもかかわらず、また裸足で部屋中を歩き回ったのだろう。
極東の島国の習慣に倣うかのように、彼女は家の中で靴を履くことを嫌がった。
靴が嫌ならせめてスリッパを使えと言ったことさえ、彼女の耳には届かなかったようだ。
よくよく見ると、彼女に身を寄せるようにしてケビンも眠っている。
すぐそばに転がっている茶色のクッションが保護色になり、だからすぐには気付かなかった。
薄情なことに主の帰宅にも気付くことなく、気持ち良さそうに眠るその姿はぬいぐるみのようだ。
周囲を見回すと、DVDのメニュー画面になっているテレビが目に入る。
テレビもつけっぱなしじゃないか。
彼女の耳には入らないと理解しているにもかかわらず、口に出そうになる小言を何とか飲み込み溜息を吐く。
長時間のフライト、ジェットラグ、その他諸々。
とっくに慣れている筈なのに、疲労感が更に増したような気がした。
重い足取りでキッチンに向かうと、カウンターの上に見慣れたポットが目に入った。
私の好きな茶葉の缶と、二つ並んだ空っぽのカップも。
この時点でようやく私は事の顛末を知る事になる。
何も考えることなく、思い通りに事が運ばないことにただ苛立ちを覚えた自分を叱咤したい気分になった。
心中で彼女らに詫びながら、準備してくれていたその後を引き継ぎ、ケトルを火にかける。
寝室のベッドから毛布を引っ張り出した後、転がっているクッションを幾つかよけて、彼女の眠るソファの傍らに座った。
私の帰りを待ち侘びて待ちくたびれて、DVDや本にも見飽きて、とうとう眠ってしまった彼女を改めて見つめる。
落ちていた紐を肩まで引き上げ毛布を被せた後で、くしゃくしゃになっている彼女の髪を梳いた。
私と彼女の愛情のベクトルは多少方向が違うから、彼女のこんな姿を見ても疚しい気持ちは沸かないのだけれど、何らかの反応を示さない自分に違和感めいたものを覚えるのも事実だ。
焦燥とも苛立ちとも異なる、けれど妙にひっかかる何か。
その正体に気付けない自分に抱く感情。
それはまるで罪悪感と言っても過言ではない。
手を伸ばして彼女の頬に触れると、柔らかい肌のぬくもりに心地よさと安堵感を覚えた。
自分の嗜好は変わらないし変えるつもりもないけれど、こんな姿を他の男には絶対に見せたくないし触れさせたくないとも思う。
それがエゴであったとしても。
私にとって君は妹のような娘のような、けれど恋人と同等に、或いはそれ以上に大切な存在。
不意に響き渡る甲高いケトルの音に我に返った私は、火を止める為にキッチンに向かった。
立ち上がった時、彼女が僅かに身動ぎしたような気がした。
茶葉を入れ湯を注いだポットとカップを持って再びソファに腰を下ろすと、ぼんやりとした表情で私を見つめる彼女の姿が目に入った。
「これは夢の続き?」
「どんな夢を見たんだい?」
そう問いかけると彼女は目をしばたたき、ゆっくりとした口調で喋った。
「貴方の帰りをずっと待ってた。チャイムが鳴ってドアを開けると友達がいて、部屋に通すけどいつの間にかいなくなってる。またチャイムが鳴って、友達がいて、またいなくなって。色々な人が来るんだけど皆いなくなるの。そして肝心の貴方は帰ってこない」
やっと帰って来たと彼女は起き抜けの掠れた声で呟き、目を細めてふんわりと笑った。
そんな彼女を見た途端、不意に私を支配した感情を何と呼べばいいのだろう。
勢いよく迸りそうになる何かに、我を忘れて飲み込まれそうになるのを辛うじて堪えながら、冷静を装う。
「夢の続きではなく申し訳ないが、私は本物だ」
紅茶が冷めてしまうまで寝惚けていればいいと、殊更皮肉をこめながら言った。
いつの間にかケビンも目を覚ましたようで、毛布の中から顔を覗かせている。
私の態度に何かを察したらしき彼女は苦笑しながら口を開く。
「…小言は後から聞くよ」
「君にしてはなかなか鋭い洞察だ」
実のところそうでもなかったのだが、私が安堵したのは確かだ。
一言余計だよと言いながら彼女は起き上がり、大きく伸びをした後で私に向き直った。
「まずはおかえりなさいのハグとキスを」
やれやれと両手を広げると、彼女は笑顔を浮かべながら私の腕の中に勢いよく飛び込んで来た。
ソファの背もたれに深く沈み込みながら彼女を受け止めつつ、子供のような仕草に呆れ返る。
その一方で、彼女の体温や甘い香りに包まれた私は、あたたかいものに満たされていた。
「待っていてくれてありがとう。…睡魔には負けたようだが」
「だから一言余計だって」
苦言を紡いだ彼女の唇はその直後、私の頬や唇に可愛らしいリップ音を響かせた。
遠い異国にいる大切な人の帰りを待ち侘びるあの曲。
君はまるで自分のことのようだとどこか寂しそうに笑い、でも大好きだと言ってくれた。
真夜中に大西洋を横断する飛行機。
その機内は、永遠に続くと錯覚してしまうような暗闇に覆われている。
その闇の中で私もまた君と同様に、もしくはそれ以上の寂寥感に苛まれていることを、恐らく君は知らない。
20080502