煌々とした月明かりの眩しさに彼は目をしばたたく。
部屋に吹き込む春の夜風は冷たく、深夜に目覚めた彼の眠気を一気に取り払った。

ふと隣に目を向けると、彼女の白い背中が寝息に合わせて緩やかに動いている。
このままでは寒さのために、彼女まで目を覚ましてしまうかもしれない。

けれど窓を閉めるために起き上がるのは億劫だ。
結局彼はぎこちない仕草で彼女の肩に掛け布団をかぶせながら、自分の元へと引き寄せた。

己の腕の中で息衝く彼女のぬくもりに安堵を覚えつつ、再び目を閉じる。
けれど眠気は一向に訪れる気配がなく、次第に彼は思考の淵に囚われた。



彼の複雑な家の事情を彼女は知っている。
その上で何も聞かずに、時折ふらりと訪れる彼の滞在を許してくれる彼女の存在はありがたかった。
それがただの同情でも惚れたがゆえの恋情でも構わない。

本当は何も知らない相手の方が後腐れもなく気楽ではあるが、ほとんどの女性は詮索好きだ。
あれこれ聞かれるのが面倒で、気が付けば彼女の元へ戻ってきてしまう。

ただおかえりと笑って彼の全てを受け入れてくれる彼女の優しさに、自分は甘えているのかもしれない。

女性からしてみれば、落ち着きのない浮ついた軽い男だという自覚はあった。
だというのに、悋気のひとかけらさえ見せない彼女の懐の広さはどうだ。

…あなたにとって、俺と寝ることなど瑣末な出来事なんですかね。

彼の中で俄かに不可解な感情が沸き立つ。
どちらかと言えば負側のそれだった。

執着されるのは面倒だ。
だから想いなんてなくても構わない。

けれど自分に対して恋心を抱いているのであれば、それはそれで可愛いものだ。
情にほだされるのはいつも相手側で、あくまでも自分は常に冷静だと、そう思っていた筈なのに。

およそ俺らしくもないですねと彼は独りごちる。



「睦月くん…寒い」

懐から彼女のくぐもった声が聞こえる。

結局起きてしまったようだ。
襦袢を羽織りながら仕方なく彼は立ち上がり、窓をぴったりと閉めた後で再び布団に潜り込んだ。

ありがとうと眠たげな目をこすりながら彼女は笑った。
隙だらけのふんわりとした彼女の朗らかさが、何故か今は癪に障る。

くだらないことをもやもやと思い煩うのは自分だけなのだろうか。

「あなたが俺とこうしている理由を考えてました」
もしかして同情ですか。

静寂に満ちた部屋で、彼の低い声が明瞭に響く。
その視線は彼女に向けられることなく、月明かりの届かない薄闇に陰る天井に注がれている。

鬼門より邪悪なものが忍び込む丑三つ時。
いつの間にか自分は、良からぬ何かに心を絡め取られてしまったのかもしれない。

清浄な光は決して届くことのない、どことも知れぬ奈落の深淵。
血生臭い瘴気にまみれた泥濘の底を這いずり回り、やがて緩慢に鎌首をもたげる大蛇の存在が彼の胸中を掠めた。

犲の面子があれの器になる可能性については、以前から示唆されている。
もしそれが自分なのだとしたら、芦屋の血を引く者として脆弱にも程があると、冷静に己を蔑む自分がいるのも確かだった。

不意に彼は両頬を挟まれ、強引に彼女の側を向かされた。
ひんやりとした滑らかな手の感触の中、首に痛みを覚えて思わず顔をしかめる。

「…睦月くん。憐れみだけじゃこんなふうに同衾できないよ」

一切の睡魔を振り払ったような彼女の眼差しとその落ち着いた声で、彼は我に返った。

瞼をしばたたきながら改めて目前の彼女を直視すると、君に対する想いがともなわなければねと付け加えた後で、意外にも彼女は微笑んで見せた。

「…すみません」

素直でなによりと頷きながら、彼女はそのまま彼の両頬を軽くつねった。
今度は全然痛くはなくて、思わず笑いが零れた。

でも、君の正直な気持ちが聞けて嬉しいと、彼女は更に言い添える。

君が帰る場所になれたらいいな。
犲は戦うための居場所だから、安らぐことのできる居場所。
君が安心してぐっすりと眠れるような。

「…とっくにそうですよ」

先程の失態も相まってどこか照れくさいこともあり、素っ気無く彼は答えた。
同時に冷えきった彼女の手を取り、自分の熱を移すように包み込む。

「そうなんだ」

彼の手を握り返しながら、彼女は驚いたように目を見開いている。
恥ずかしげもなく自分で言い出しておいて、その態度はどうなんだ。

「意外そうですね」
「だって君はふらふらしてるから」

決して咎めるような口調ではなく、だから彼女の表情には慈しむような笑みが浮かんでいる。

「…俺に想いがあるのに怒らないんですか?」
「うーん…何か睦月くんの気持ちもわかるような気がして」

君の背負っているものはとてつもなく重いから、全部受け止めるなんておこがましいことは言えないけどね。

居心地がいい理由が理解できたような気がした。
何のことはない。
拗ねた子供のように尖っていたのは自分だけで、理不尽な八つ当たりでさえも彼女は許してくれていた。

少しくらい妬いてくれてもいいのにとは思うが、素直に訴えるのもどこか悔しい。

でも、お願いだから修羅場には巻き込まないでねと彼女はすかさず釘を指した。
…一応肝に銘じておこう。

じゃあもう一眠りしようかなと、白い両腕を伸ばしながら、彼女が小さくあくびをする。

「今日は早朝から訓練なんですよね」
「うわー、期待されてるねぇ」
「どうせ人事だと思ってるでしょ」
「いやいや大事なお役目だよ。睦月くんがんばれー」

わざとらしいまでに棒読みな彼女の応援の言葉に、彼は破顔せざるを得ない。



月明かりの中、夜明けまでの優しいひとときは瞬く間に過ぎゆく。
触れるだけのくちづけを交わした後で、二人は再び短い眠りに就いた。



20190522