早朝に届いた宗谷からのメッセージには、対局が終わって遠征から昨日帰宅したこと、土産があることだけが書かれていた。

要するに家に招かれたのだろうと理解したミユは、多分見てはいないだろうが一応返信をして、仕方なく彼の自宅へ向かうことにする。

普段の睡眠不足を解消すべくひたすら眠り、昼前になってようやく目を覚ましたところだった。
せっかくの休みで久し振りに急ぎの用事もなく、起きた後も、エアコンの効いた快適な室内でのんびり過ごすつもりだったのに。

窓の向こう側に見える鮮やかな色の空は、すなわち外が炎天下であることを示している。
目の眩むような陽射しの中、じりじりと肌を刺す暑さを思うと、外出するのは気が進まない。

何で断れないかなーと呟きながら、のろのろと着替えたミユは簡単にメイクを済ませて、日焼け止めクリームを念入りに塗りたくる。
覚悟を決めてバッグとサングラスと日傘をお供に玄関のドアを出ると、湿度を含んだ熱気がすかさず肌にまとわり付き、早くも辟易した。

それにしても宗谷だ。

普段の彼は無表情が標準仕様で、滅多に感情を示すこともない。
取材時の笑顔は仕事用の完璧な作り物だ。

何を考えているのかは何となくわかる程度だが、察することができるのは俺とばあちゃんとお前くらいだよと、連盟の会長である神宮寺に言われたことを思い出す。

子供の頃はもう少し可愛げがあったような気がするのに。
…それはお互い様かもしれないけれど。

彼の頭の中は常に将棋に関することで占められていて、それはあの頃から何ら変わりはないと思う。
変わりないと言えば、三十路を過ぎても容貌にほとんど変化がないのは本当に羨ましい限りだ。

夢中になれるものにひたすら邁進し、早い時期から才能と実力とを存分に発揮した結果が今の宗谷だ。
たとえ将棋以外の事柄には無頓着で、言動が天然で、周囲からは不思議ちゃん呼ばわりされていても、彼の輝かしい功績の前では些細なことだと皆が言う。

一つのスキルだけがやたらと突出していて他はまるで駄目、という偏り過ぎなチャートは、様々な分野で天才と呼ばれた偉人のそれに該当するような気がする。

気が付けばミユは、そんな宗谷と物心ついた時から友人として付き合いが続いている。

子供の頃とは違い、今は互いに多忙な身の上で、数ヶ月程連絡を取らないこともある。
それでもこんなに長い歳月を共に過ごしてきたのは、家族以外では彼だけかもしれない。



観光地の付近にもかかわらず、宗谷の家の周囲は静寂に満ちている。
日中の蝉の鳴き声は相当に賑やかだが、この季節とは相反する冬の夜の凛とした静けさを、何故かミユは思い起こした。

インターホンを何度か押しても特に変化は見られない。
早々に諦めて門扉を潜り、玄関の扉に手をかけると、施錠されていなかったらしきそれは案の定すんなりと開いてしまう。

「こんにちはー。宗谷ー、来たよー」

…反応なし。
ミユは溜息を吐き、かつて慣れ親しんだ家に勝手に上がり込むことにした。

今では祖母と二人暮らしの彼の家は閑散としていて広い。
けれど彼が将棋の研究に没頭する部屋は決まっている。

長い廊下を進んで左側の二番目の部屋、襖が開け放たれたままの広々とした和室を覗き込むと、将棋盤の前に座り込む宗谷の姿が見えた。
その彼を囲むようにして、棋譜が記された紙が乱雑に散らばっている。

宗谷に声を掛けようとしたところで、この部屋がかなり暑いことにようやくミユは気付いた。
猛暑の戸外から入ってきたので幾分かは涼しく、だからすぐにはわからなかった。

彼女は遠慮なく室内に踏み込むと、エアコンのリモコンに手を伸ばした。
スイッチを押した後で襖をぴったりと閉め、辛うじて回っていた扇風機を強にして生温い空気を攪拌させる。
途端に宙に舞った棋譜を手早くかき集めて宗谷の直ぐそばに置き、目に付いた空のコップを重石代わりにした。

そこまでしたところで、ようやく宗谷の顔がゆっくりと持ち上がり、その視線がミユに定まった。

突然自分の目の前に姿を現したミユに驚くこともなく、ああ来たんだねとばかりに彼の表情が僅かに緩む。
彼なりにミユの訪問を歓迎してくれているようだが、今はそれを喜んでいる場合ではなかった。

「…ねぇ宗谷、熱中症で倒れたら将棋どころじゃなくなるよ」
「…朝は、涼しかった」
「メッセージをくれた時?」

彼は微かに頷いて見せた。

けれどそれは随分前の早朝時のことで、つまり今は暑いのだろう。
宗谷のことだから、たった今気付いたのかもしれないが。

どこか他人事のように答えた彼の白い首筋には、薄らと汗が滲んでいる。
ミユはバッグから冷感シートを取り出し、有無を言わさず彼に押し付けた。
フローラルな香りはこの際我慢してもらうことにする。

「おばあちゃんは?」
「出かけてる」

買い物?と聞くと昨日から旅行と返ってきて、ミユは頭を抱えたくなった。

対局絡みの遠征から帰宅した彼は、充電が切れたようにひたすら眠り、それから研究に勤しむ。
昨日から祖母が不在だとすると、食事をまともに取ってない可能性がある。

矢継ぎ早に彼の胃袋の状況を確認すると、昨夜は何も食べずに眠ったものの、朝食は一応取っていることがわかり、少しだけ安堵できた。

とりあえず差し入れのアイスと大きなグラスに氷たっぷりの麦茶を宗谷に渡しておき、改めてキッチンの冷蔵庫を拝見する。
数個のタッパーに作り置きされているものが目に入り、さすがおばあちゃんとは思うものの、やはりどれもが手付かずだった。
めんつゆと素麺を見つけたので数束を茹でることにして、ミユは少し遅い昼食の準備を始めた。



部屋に戻るとアイスのカップと麦茶のグラスはどちらも空になっていた。
やはり喉が渇いていたのかもしれない。
何事もなくて本当に良かったと改めて胸を撫で下ろす。

意外にも食欲はあるようで、ミユが茹でただけの素麺と、皿に盛り付けただけの祖母手作りの料理を宗谷は綺麗に平らげた。

ごちそうさまと告げた後で、彼は再び将棋盤の前に座り込む。
ミユは扇風機の風を弱くして、棋譜の上の重石代わりにしていたコップを片付けた。

食器を洗い終えた後で紅茶の茶葉を見つけたので、今度はアイスティーを作った。
グラスの一つを宗谷が零さないように見計らいつつ、彼の近くに置く。

窓で隔てた向こう側の微かな蝉の鳴き声、彼が駒を指す音、時折棋譜をめくる音だけが聞こえる。
とても静かだ。
自分が持参したレモン味のかき氷を食べながら、ミユはのんびりと彼の様子を眺めていた。



視界に映る天井が赤く染まり、暗い影を落としている。
背中の痛みにミユは顔をしかめた。
いつの間にか眠ってしまったようだ。

自分にタオルケットが掛けられていることを疑問に思いつつ、大きく伸びをした後で何気なく横を向く。
すぐそばに宗谷の顔があり、彼女は勢いよく飛び起きた。
その弾みで脛をテーブルの縁に強打し、足を押さえながら痛みに呻く。

眠気は瞬く間に吹き飛んでしまった。
…何もかも宗谷が悪い。
涙目で彼を睨みつけるも、当人は何も知らずに眠っている。

彼と自分に掛けられていたタオルケットを投げつけるようにして宗谷に被せた。
そもそも何で隣で寝てるんと足を擦りながら小声で呟いていると、もぞもぞと動いた彼がやがて目を覚ましたことに気付く。

「眠くなったから」

どうやらミユの独り言に返事をしてくれたようだが、それは彼女の求める答ではなかった。

「…もう帰るの?」
「うん。今日は結構長居したよ」

ご飯食べた後はほとんど寝てたけどねーと軽く欠伸をするミユの様子を、宗谷はじっと見ていた。

「ミユ」
「ん?」

不意に彼の手が伸びてきて、驚いたミユは身動きする間もなく大きく目を見開いた。
そのまま彼女の頬にそっと触れる宗谷の指先は冷たい。

「…畳の痕がついてる」
「えっ!ホントに?早く教えてよ」

慌ててバッグから小さな鏡を取り出し確認すると、確かに薄らと模様が残っていた。
既に陽は落ちているので帰宅に支障はないとミユは結論を出し、後はもう気にしないことにする。

「泊まればいいのに」

そこへ来て宗谷のこの台詞である。

あどけない表情で、けれど確実に大人である筈の彼は、そうやって簡単に子供の頃と同じことを言ってしまうのだ。

今の彼の本心は掴めない。
けれど当時のように素直に頷くことは、ミユにはもうできない。
その変化が少し寂しい気もするけれど。

笑顔で首を横に振って、また来るねとだけ答えた。
どこか不服そうに見える宗谷の表情は…多分気のせいだ。



彼から渡された遠征のお土産を受け取って部屋を出ると、小柄な影がキッチンに見えた。

「おばあちゃん、お帰りなさい」
「ああミユちゃん。今日はありがとうね」
「こちらこそ。冬司くんと一緒におばあちゃんの美味しいご飯をいただきました」

宗谷から詳細は聞けなかったが1泊2日の旅行だったようだ。
これで安心して帰ることができる。

タオルケットは彼女が掛けてくれたらしく、改めてお礼を伝えると、元々優しげな表情が更に朗らかになった。

「二人で寄り添うて眠ってたよ」

仲良しさんやなあと邪気のない笑顔を向けられ、ミユは気恥ずかしい思いに駆られる。

もう帰るん?泊まっていけばええのにと孫と同じことを言ってのけた彼の祖母は、困り顔の孫の幼馴染に旅行のお土産を渡した。
相変わらず何の進展もなさそうやなと、少しだけ落胆を覚えながら。



対局が終わって帰宅して、深い眠りに就く。
久し振りに鳥のさえずりを耳にしながら目が覚めて、ふとミユに会いたくなって連絡すると、彼女はすぐに来てくれた。
普段曜日を意識することは少ないが、偶然にも彼女の仕事が休みだったのが幸いしたと彼は思う。

東京を中心に国内の各地を飛び回る彼は、今年の夏の気候が一際厳しいことを理解していたつもりだ。
それでもいつもの世界に没頭してしまえば、暑さも喉の渇きも忘れた。
ただ、どこかで集中力が途切れていたのかもしれず、普段通りに多くの情報を記憶の襞に刻み付けることは難しかった。

ミユから渡されたシートは花のような香りと共に、ひんやりとした清涼感を与えてくれた。

麦茶もアイスも、彼女と一緒に取った食事も美味しかった。
祖母が作ってくれた馴染みの味にもかかわらず、あんなにも箸が進んだのは久し振りのような気がする。
その後は、再び有意義な思索に集中することができた。

一区切りしたところで我に返ると、ミユが眠っていることに気付いた。
昨夜は充分に眠ったつもりだったが、彼女の寝顔を見ているうちに瞼が重くなってきた。

眼鏡を外してミユの隣に寝転び、目を閉じて、規則的に繰り返される彼女の微かな寝息に耳を澄ませる。
…とても静かで、心地良い。

普段の日常に溢れ返る、喧しい雑音は必要ないけれど。
ミユが隣にいる今は、この世界の音が聞こえて良かったと思いながら、彼は穏やかな午睡のひとときに身を委ねた。



20180825