長時間注視していたパソコンのモニターから目を逸らし、脇にある書類の束に視線を移した彼女は思わず溜息を吐く。
就業時間はとっくに過ぎていた。
むしろ就業後の方が別の仕事も入らず捗ってはいるものの、到底終わりそうもない作業量だ。
確かに捗ってはいた。
だが徐々に疲労が蓄積して、少しずつ効率が落ちてきているような気もする。
手付かずの書類の束。
その現状を改めて突きつけられたことで、凝り固まった両肩が余計に重くなったような気がして、彼女は再度溜息を吐いた。
…よくない兆候だ。
だんだん後ろ向きになってきた。
大きく上背を逸らし、両肩を回しながら気持ちを切り替える。
せめてキリの良い箇所まで仕上げることにして、彼女は再びキーボードを叩き始めた。
仕事を切り上げた時、ひどく喉が渇いていた。
水分を取ることも忘れて集中していた自分に苦笑する。
帰り支度を整えた彼女は自販機で飲物を買い、備え付けの冷たく硬いソファに腰掛けた。
薄暗く長い廊下は人の気配もなく閑散としている。
間もなく今日が終わろうとしている時間帯だ。
庁舎内には当直がいる筈なのだが、ここではその気配も感じられない。
冷たいお茶を喉に流し込み、酷使した目を休ませる為に軽く瞼を閉じた。
「オイコラ、サボってんじゃねぇよ」
聞き覚えのある低い声に、彼女は驚きながら顔を上げた。
廊下の向こう側から長身の人物が近付いて来る。
誰なのかはすぐにわかった。
仄暗い明かりの中でもはっきりと見えた彼の強面は、被疑者に対して多少なりとも有効性があるのだろうが、彼女にとっては畏怖の対象ではなかった。
「もう帰ろうと思っていたところです」
だからサボりではありませんと言って彼女は笑ってみせた。
疲れと緊張とで、ぎこちない笑みにはなっていないだろうかと内心の動揺を抑えながら。
だがそれ以上に嬉しかったのも事実だ。
これは頑張ったご褒美かもしれない。
「俺は宿直だ。今は起番じゃねぇから、つまり俺もサボりじゃねぇ」
ポケットに両手を突っ込んだまま胸を逸らし、尊大な態度を見せつけながら彼はうそぶく。
…そこで威張る理由がイマイチわからない。
思わず吹き出しそうになりながら、別に疑ってないですし聞いてませんと、殊更すました態度で応えた。
いちいちうるせぇよと迫力のある表情で睨まれたので、満面の笑みですみませんと侘びを入れる。
ちっとも悪いと思ってねぇだろ。
バレましたか。
わかるっつうの。
そんな軽口を叩き合っているうちに、先程まで感じていた筈の疲労感はいつの間にか忘れていた。
軽い応酬が一段落ついたところで大仰な溜息を吐いた彼は、長身を折りたたむように彼女の隣に腰を下ろした。
それだけのことに鼓動が跳ねるのを感じながら、やっぱりご褒美に違いないと彼女は密かに思う。
「休憩中なのに仮眠を取らないんですか?」
懐から取り出した煙草を口に銜えながら、三浦さんのいびきが凄くて眠れねぇんだよと彼は不満げに呟いた。
「そんなに?」
「ああ、歯軋りと寝言もひでぇぞ。いっぺん聞いてみろ」
聞いてみろって。
…そう言われても、そんな機会にはなかなか恵まれないだろうけれど。
彼と行動を共にしている二人が、時々羨ましくなる。
こうして彼から二人の話を聞く時も、二人から彼自身の話を聞く時も、廊下などで偶然に彼らの姿を見かけた時も。
自分には彼らのようなハードな仕事は到底勤まらないと理解していても尚。
「そう言う本人が一番ひどかったりして」
俺は静かなもんだよとやはり居高な態度で答える彼に、本当ですか?と笑いながら詰め寄ってみる。
おぉ、寝相もいいぞと頷きながら、彼は煙草に火を点けた。
さすがに今度ばかりは聞いてみろとは言われなかったし、冗談めかして聞かせて下さいと言ってみる勇気も当然なかった。
「今夜は何も起きないといいですね」
「だな」
紫煙を燻らせながら、意外にも彼は素直に頷いた。
常に事件を追い求めている訳ではないのだ。
いつしかの年末、事件よ起きろと彼は呪詛のように呟き、本当に起きてしまったという逸話は聞いている。
彼の心情を慮ると、一概に不謹慎だと責められなかったのは惚れた弱みだろうか。
少し上向き加減で壁面のどこかに視線を注ぎながら、彼は煙を吐き出している。
眉間に皺を寄せたままの横顔や、煙草をはさんだ大きな手を無意識に見つめる。
「…おい」
「は、はい?」
不意にこちらを振り向いた彼から、彼女は慌てふためきながら視線を逸らした。
まさかあなたを凝視してました、なんて言える訳がない。
「間に合うのか?」
「え、何に?」
「…おいおいマジボケか?」
お前の帰りの足だよと言って、彼は煙草を銜えたまま彼女をデコピンする仕草を見せた。
自分の額の前に彼の長い指が伸びてきて思わず肩を竦めるが、素振りだけで終わったようだ。
安堵したような残念なような複雑な気分に苛まれながら、手元の時計を確認した。
「あ!」
彼女は勢い良く立ち上がる。
いつの間にかこんなに時間が過ぎていたのだ。
今から急げば何とか終電に間に合いそうな時間ではあった。
「あ、じゃねぇよ」
帰れ帰れ、さっさと帰れ。
そう言いながら彼はしっしと彼女に向けて手を払う。
追い出されるようなその仕打ちに少しだけ落ち込みそうになった。
だが。
明日も早いんだろうが。
煙草を揉み消しながらぼそりと呟かれたその言葉に、彼女は一瞬耳を疑った。
自分を気遣うなど、普段の彼には到底似つかわしくない。
それでも彼が優しい人だということは知っている。
ひどく遠まわしで、天邪鬼な言動でもって彼はそれを表現するのだ。
だから、多少わかりにくいだけで。
だから私は。
「では、ここで失礼しますね」
彼女はバッグを手に取り、お疲れ様ですと彼に笑顔で告げた。
だが彼からの返事はなく、眉間の皺が益々深く刻まれる様子が見て取れた。
また何かやらかしただろうかと、目をしばたたきながら座ったままの彼を見下ろす。
いつもは見上げてばかりなので、少し不思議な感じがした。
「おい」
「は、はい?」
「…ってやるよ」
彼にしては珍しく不明瞭な口調だった。
聞き取れずに彼女はもう一度聞き返す。
「駅まで送ってやるっつってんだよ!」
ボリュームを急に大きくしたような声量が彼女の耳に響いた。
「…え?あの、お気持ちはとても嬉しいのですが、すぐそこだししかも伊丹さんは宿直だからつまり勤務中ですよね」
驚きのあまり、自分でも何を言っているのか解らなくなってきた。
しかも願ってもない彼の申し出を、遠まわしに断ってしまったのではないだろうか。
「休憩中にとっとと戻ってくりゃ問題ねぇだろ」
オラ、さっさと行くぞ。
立ち上がるなり、足早に歩き出した彼の背中を慌てて追いかけた。
静寂の夜、駅までの道を二人で歩く。
嬉しい筈なのに心の準備が伴わず、緊張を覚える。
静まれ心臓、落ち着け私。
よくよく考えてみればさっきから緊張のしどうしだ。
こんなことでは先が思いやられる。
他人事のようにそう考えながら苦笑してみると、少しだけ落ち着くことができたような気がした。
「おい」
「はい?」
「間に合いそうか?」
「…えーと、走れば何とか」
「よし走るぞ」
「え」
「え、じゃねぇんだよ。とっとと走れ!」
驚くべきことに、彼は彼女の手を掴んで走り出した。
今しがたの緊張など吹き飛んでしまうくらいに驚きながら、目の前の長身を、広い背中を追いかける。
引っ張られながら懸命に走り続けてもなかなか追いつかず、彼の隣に並ぶことができない。
息が切れる。
それでも、足を止める訳にはいかない。
止めたくはない。
この状況は、まるで今の自分の想いを図式化しているようだと彼女は思う。
いつになったら追いつけるのだろう、この人に。
わかるのは、こうしてこの人のそばにいるのが心から嬉しいということだけだ。
ここから先へ、進むことができるだろうか。
「着いたな。そら、急げ」
せっかくの機会も、終電を逃さないための深夜のランニングに終わってしまったようだ。
手を繋ぐという願ってもないオプション付きではあったが、正確にはむんずと掴まれ、ただ引っ張られただけだ。
全く、何をやっているんだろう。
そう思うと無性に可笑しくなってきた。
息を切らしながらこみ上げる笑いを押し殺すのはとても苦しい。
「なぁに笑ってんだよ」
怪訝な表情で眉をひそめた彼は、たいして息も乱れていない様子だった。
仕事が仕事なのでこれくらいは慣れているのだろう。
「優しい、ですね」
息を整えながらそう告げると、今度こそ額を軽くはたかれた。
…調子に乗んなよバーカ。
残業のやりすぎで頭のネジが緩んでんじゃねぇのか?
早く帰ってさっさと寝ろ。
夜の明かりの中で、彼の顔が心なしか赤く染まっているように見えたのは気のせいだろうか。
続けざまに罵られたが全然悔しくも怖くもなかった。
それどころか。
その強面も眉間の皺も、低く響いた声さえも。
頬を緩ませたまま礼を告げると、彼は無愛想におぉと頷いた。
明日も(と言ってももう今日だが)広い庁内で会えるかどうかはわからないけれど。
擦れ違うことくらいはあったって、いや、ありますようにと願いを込める。
「乗り遅れるぞ。さっさと行け」
彼女に背を向け歩き出した彼は、明日遅刻すんなよと言いながら軽く手を上げた。
20100525