隋分昔、鼻について堪らなかった硝煙の匂いは、いつの間にか気にならなくなった。

 普通の人々にとっては生涯無縁で終わるであろう環境が、彼を取り巻く普段の日常だ。

 灼熱の太陽の下や極寒の氷土で訓練に明け暮れた日々。

 殆どの者が音を上げる過酷なメニューを、彼は黙々と最後までこなした。

 脱落者が次々に振るい落とされ、やがて正式な部隊の一員として任務が課せられるようになると、訓練時のようにおいそれとは脱落できなくなった。

 やり遂げるか諦めるか。

 その選択の境界線には自らの命が伴うからだ。

 しかも本人の意志に拘らず、任務の内容が困難であればある程、生存率は反比例して低くなる。

 そのような組織の中において常に彼は冷静に任務を遂行し、どんな状況であろうとも必ず生還した。

 全滅した部隊の唯一の生き残り。

 彼の目前を逝き過ぎた命はあまりにも多い。

 驚愕、揶揄、畏怖、猜疑、尊敬。
 
 あらゆる感情が混濁した多くの視線に晒されることにももう慣れた。

 「死神」と呼ばれるようになったのは、悼むべき命の数が把握できなくなった頃からだったか。





 容赦なく吹き荒ぶ乾いた風に彼は目を細めた。

 目前に立ち並ぶ建物は殆どが崩壊寸前で、衰えを見せることのない炎が辛うじて残った壁面を焦がしながら、そこかしこで燃え盛っている。
 
 自分以外の人の気配がない廃墟同然の街中で、今回も最悪の事態に見舞われたことを彼は悟った。

 今しがた無線で連絡を取り合っていた部隊の一人、その断末魔の叫びが耳から離れない。

 そして彼の呼びかけに応答する他の者たちの声はもうなかった。

 同様の状況に陥り、畜生と毒づいたのはこれで何度目だろうか。





 どこからともなく獣のような唸り声が聞こえる。

 それがただの獣ではないことを重々承知していた彼は、足を止めることなく慎重に先を急いだ。

 瓦礫だらけの細い路地裏を抜けたところで、多くの人影と遭遇した。

 呻きとも威嚇ともつかぬその声は、確かに奴らから発せられた声だった。

 人間の原型を辛うじて留めたその姿は最早正視に堪えぬ有様だが、彼は目を逸らすことなくそれらと対峙する。

 かつては人間だった者たち。

 今や飢餓感だけに支配された者たちの理性なき訴えを、素直に受け入れる訳にはいかなかった。

 躊躇うことなく構えていたMP5のトリガーを引く。

 被弾の衝撃で奴らが倒れたのは束の間のことだ。

 幾つもの9mm弾を壊死した全身に埋め込んだまま再び起き上がった奴らは、千切れかけた己の体の一部を引き摺りながら、何事もなかったかのように緩慢な動作で両腕を伸ばし彼に迫り来る。

 普通の人間ならばひとたまりもない銃弾の雨は、奴らに対しては大した手応えが得られなかった。

 舌打ちする間もなく次々に襲来する群れから何とか抜け出した彼は、手榴弾のピンを引き抜き奴らに向けて投擲する。

 耳を劈くような爆破音を確認しながら油断することなく周囲を見回した。

 やがて塵煙の中から立ち上がる幾つもの影に、彼は再び銃口を向ける。

 幾度目かの弾倉が空になった頃、ようやく奴らの気配が途絶えた。

 だがそれは僅かな時間であり、彼が一息吐いた矢先、別の方向から再びあの唸り声が聞こえた。





 倒しても倒しても、湧き出るように彼の目前に現れる生ける死者たち。

 酷い悪夢の方が余程ましだ。

 どんなに救いがなくとも所詮それは夢に過ぎないのだから。

 およそ現実離れしている現実。

 壮絶な惨状を呈したその現実と彼は冷静に向き合う。

 任務を果たし、生還する為に。

 それが酷く困難で、一人きりの孤独な戦いだとしても。





 不意に脳裏を掠めた優しげな笑顔を、彼は可能な限り鮮明に思い浮かべようと試みた。

 様々な表情を持つ彼女の真っ直ぐなその瞳が、自分を見つめたまま緩やかに細められた時のことを。





 今度はいつになるだろうか。

 あの笑みを再び目にすることができるのは。

 その時は果たして巡ってくるだろうか。





 そこへ戻るべく歩む隘路は果てなく遠いが、諦める訳にはいかない。

 大切な記憶の欠片を胸中に深くしまい込み、彼は地獄で戦い続ける。



20090406



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