両手に圧し掛かるデスサイズの重みは、強靭に繋ぎ止められた人の魂を、その身体と現世から引き離すためにあるのだとルカは思う。

 なけなしの覚悟だけでは振るうことができないその重みを、彼女はしっかりと握り締めていた。

 大振りの鋭利な刃を持つそれは、今しがた最初の役目を果たし終えたところだ。





 陽が西の端へと傾き、空が赤く染まる黄昏時。

 ロンドン郊外の路地裏の片隅で、死神の目にしか見えない記憶が次々に流れ出している。

 ルカはその場に立ち尽くしたまま、目前の死者が歩んで来た過去から現在に至る全てを否応なく眺めていた。

 確認作業に過ぎないと彼に言わしめた、かけがえのない一つの命が終幕に向かうその様を。





 ルカの目に映る死者の生前の記憶の中、直視し難い悲劇が絶え間なく繰り広げられている。

 平穏に生きることすら許されず、若くしてこの世を去らなければならなかった、幸薄き短い命の軌跡はもうすぐ途絶える。

 胸中をこみ上げるものがルカの視界を歪め、彼女は唇を強く噛み締めた。

 血が滲み、口腔に鉄臭い味が広がる。

 貴方がこの世に生を受けたのは、一体何の為だったのだろう。





「何をしているのです、ルカ・ナイトレイ」

 背後で響いた聞き覚えのある声に、彼女はゆっくりとした動作で振り返る。

 煉瓦の道に伸びた細身の影を辿ると声の主の足元が見えた。

 分厚いファイルを抱えた彼は靴音を響かせながら、律動的な足取りでルカの元へ歩み寄った。

「早く処理なさい。私情を差し挟む猶予はありませんよ」

 厳しい表情で彼が眼鏡のフレームを押し上げた時、彼女の目に溜まっていた涙が頬を伝った。

 彼は僅かに瞠目した後で大仰な溜息を吐き、つかつかとルカに近付くと彼女の眼鏡を取り去った。

 涙で滲んだ視界が更にぼやけて酷いものになり、彼に対して反論する気力も湧かないままルカは俯いた。

 乾いた地面に小さな雫が跳ねる。

 何も見えない。

 もう何も見たくない。

 苦悶に歪んだ死者の表情も、その人の悲しみに満ちた過去も、目前にある彼の険しい双眸も。





 黒い手袋に覆われた彼の手がルカの顎を持ち上げ頬に触れた。

「対象者に思うところがあるのなら、一刻も早く魂の回収を無事に済ませてしまいなさい」

 彼は至って冷静で、彼女の様子に対する狼狽振りは微塵も感じられない。

「そうやって憐憫の情に浸っている隙に害獣に掠め取られでもしたら、それこそ本末転倒もいいところです」

 やはり冷静な態度でそう告げた彼は、慎重な仕草でルカの涙の跡を辿り、彼女の唇にこびり付いた血を拭い取った。

 まばたきすると新たな涙が零れ落ちたが、すかさず彼の指先がそれを受け止める。

 ルカは戸惑いながら彼を見上げていた。

 説教めいた小言が延々続くかと思いきや、彼はルカの様子を伺いながら沈黙を守っているように見える。

 その意図が掴めないながらも少しずつ落ち着きを取り戻したルカは、彼の発言の意味するところを考えていた。





 彼は正しい。

 人間ならいざ知らず、私達が死者のためにどれだけ心を痛めてもどうにもならないのだ。

 本当にその死を悼むのなら、魔の者に奪われないように魂を導くことこそが死神の務めではないのか。

 冷静に、速やかに、厳かに。

 嘆き悲しむのは全てが終わってからでもできる。





 やがて彼は真っ白なハンカチを取り出すと、取り上げていたルカの眼鏡を手早く拭き上げ彼女に返した。

 ピントを取り戻したルカの視界は、彼女が拒否したかった現状をまざまざと見せ付けている。

 それでもその双眸には、先程は見られなかった光が宿っていた。





「泣いている暇があるのなら、可及的速やかに己の職分を果たすべきです」

 その為に貴方はここにいるのですから。

 たった今、まるで想い人に接するかの如く、丁寧に涙を拭いてくれたことが嘘のような冷静さで彼は口を開いた。

 だが、彼の言いたいことは理解できたつもりだ。

 ルカが謝罪と礼を口にすると、彼は依然として厳しいままの表情で眼鏡のフレームを押し上げた。

「貴方に与えられた成すべき事を、定時までに抜かりなくやり遂げなさい。勿論報告書も忘れずに」

 残業など使えない死神のやることですと言って彼はルカに背を向ける。

「全く…とんだ時間のロスです。私は行くべき所があるのでここは任せましたよ」





 そうして彼は一度も振り返ることなく、完全に陽の落ちた夜の闇に消えた。



20100107



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