「あら、いいトコロで会ったワネ!」

本日分の回収を一通り終えた矢先だった。
リストの最後に載っていた人物の家の扉を静かに閉じて、ロンドンの狭い通りを歩いているところで聞き覚えのある声がした。

仕方なく足を止めて振り返るも、沈みかけた西陽が家々の影を作り出している路地には誰もいない。
ふと上を向いた途端、赤いロングコートと色鮮やかな長髪をなびかせながら、グレルが軽々と飛び降りてきた。

台詞的には偶然遭遇した風ではあるが、どう考えても屋根の上で待ち伏せしていたとしか思えない。
それにしても相変わらず派手な登場だ。

「ねえルカ、ちょっと注意力散漫じゃない?」

身を屈めたグレルは、遠慮なくルカの顔を覗き込んできた。
眼鏡越しの長い睫や、綺麗に引かれたアイラインが彼女の目に映る。
仄かに漂うムスク系の香り。
グレルの身だしなみやメイクは、夕暮れ時でも完璧だった。

「グレル…今日は疲れてるんだ」

本当は無視して通り過ぎてしまいたかったが、さすがにそういう訳にもいかない。

「じゃあ補給が必要ね。今から美味しいものでも食べに行きまショ」

疲労困憊なので、このまま直帰したいというルカの意図は全く伝わらなかったようだ。
何か話したいことがあるのかもしれない(正直なところあまり聞きたくはないが)。

表情を曇らせた彼女を気に掛ける様子もなく、グレルはルカの手を強く掴むと、軽快な足取りで歩き出した。



賑やかなパブの一席に落ち着き、ビールで乾杯した途端に、グレルの女子力指南という名の説教が始まった。
装いに気を遣うことは女性として当然なのに、アンタのスーツはいつも地味過ぎるだの、ヒールが低いだの、何よりも化粧っ気がないだのと、実に多くのご指摘をいただいた。

要人に会う訳でもないし、第一相手はもう死んでいる見知らぬ他人だし、靴は歩きやすさを優先した結果だし、そもそも仕事で着飾っても云々と言い訳してみるも、グレルは一切聞く耳を持たない。
挙句の果てに、今度の休暇に買物とネイルサロンに強制連行される羽目になってしまった。

断っても家まで押しかけてきそうな勢いなので、観念して付き合うことにした。

四の五の言いながらも、グレルは色々と世話を焼いてくれる。
姉御肌とでも言っておけば本人は喜ぶだろうか。
今日のように面倒だと思うことも時々(ほとんどそうかもしれない)あるけれど。

「そんなことよりも本題よ!」

料理が運ばれてきた頃に、グレルはそう言ってルカに詰め寄った。

…今までの話はメインじゃなかったのか。

これ以上何を言われるのだろうと気が重くなる。
間近に迫るグレルに思わず椅子ごと身を引いたルカは、こっそりと溜息を吐いた。

「アイツだけは止めときなさい」

真顔で目をしばたたく。
やがてグレルの言う人物が思い当たり、ルカは頭を抱えたくなった。

…いつの間にそんな事態に?
誤解もいいところだが、余計なことは言わない方がいい気がする。

グレルから視線を逸らし、フィッシュアンドチップスのポテトフライを口に運ぶ。
揚げ立ての食感は良かったが、酢も塩も効き過ぎだ。
ビールで無理やり流し込み、付け合わせの焼きトマトやマッシュルームにフォークを伸ばした。

意外にもグレルは真面目な表情で、オセロ先輩と共に調査した経緯を教えてくれた。
やはり彼はロンドンに戻ってきていて、現在進行形で色々と暗躍しているらしい。

同期だからオセロ先輩が駆り出されたのだろうか。
随分前に現役だったんだなとぼんやり思う。
死神として、彼は幾年の歳月を過ごしてきたのだろう。

自分のように不信感に陥るだけではなく、彼はたった一人で、真っ向から協会に反旗をひるがえして出奔したということだ。
しかもデスサイズを所持したままで。

オセロ先輩による上への報告次第で、彼に対する捜索はいよいよ厳しくなるのかもしれない。
簡単に捕まるとも思えないけれど。

「あ、でもウィルは駄目よ。アタシの本命だから!」

我に返ったルカは改めてグレルに目を向けた。
…一体何の話だったっけ?

ウィルはさておき、アイツなんかよりもオセロの方が余程いいワヨ。
この前一緒にお茶したんでしょ?
あの科捜課の引きこもりが女の子と仲良くケーキ食べてたって聞いて、そしたら相手はアンタだっていうじゃない。
ギークで朴念仁で鬼強いと見せかけておいて運動神経は皆無だったけど、仕事熱心で人畜無害。
鈍感だから落とすまでに時間はかかりそうだけど、その分一途そうだし、ライバルもいなさそうだし。
ルカがその気ならアタシは断然応援するワ。

…成程、協会のお尋ね者である物騒極まりない男にご執心の後輩に、代わりの堅実だと思われる相手を勧めてくれている訳だ。

それにしても、スピアーズ先輩も大変そうだとルカは苦笑を覚える。
色々な意味で暴れん坊のグレルを簡単に捻じ伏せることができる、文武両道で冷静沈着なスピアーズ先輩はグレルと同期だ。

何故かグレルとは、いつの間にかタメ口で話すようになった。
随分前に本人から敬語禁止と言われたような気もするが、その辺りの記憶は曖昧だ。

そしてオセロ先輩も散々な言われようだが、恐らく本人の耳に入ったとしても先輩自身はあまり気にしないだろう。
複雑な機械を分解しては再度組み立てたり、興味を引く実験や研究に携わっていればご機嫌な人だ。

グレルの脳内は恋愛一色に染まっていて、ルカを取り巻く関係性に多くの誤解があるようだが、それを解くのも面倒な気がした。
ひとまず問題の彼自体からは話題が逸れたので、正直安堵してもいた。

オセロ先輩にはフランスで彼と出くわしたことだけは白状せざるを得なかったが、その件はグレルには伝わっていないらしい。
もしかして知った上での忠告だろうかと思い直し、ルカは僅かに動揺を覚えた。

グレルのこの方面での鋭さは侮れない。
気にはなったものの、詳しく聞き出すことで墓穴を掘りそうなので、自分からは触れないことにした。

「まあ正直なところ、アンタの気持ちもわからないでもないワ」

自分よりも強くて得体の知れない危険な男って魅力的なのよねぇ。
更にイケメンであれば言うことなし!
手の届かない高嶺の花っていうの?
冷たくあしらわれるともうキュンキュンしちゃう。
あ〜今頃セバスちゃんは何してるのかしら。
屋敷が警察に包囲された時、アタシとオセロは隙を見て失礼したけど、セバスちゃんのことだから大人しく捕まってる筈ないわよネ。

本命ではないにしても、噂に名高いお気に入りの悪魔のことを語るグレルのテンションは高い。
なので話は延々と続き、一向に口を挟む余地がなかった。

まあ自分からは矛先が逸れて良かった、聞き役で結構だと割り切りながら耳を傾け、食べることに専念する。
焼きたてのシェパーズパイは塩加減がちょうど良く、ルカの口に合った。

ちなみにグレルは喋りっぱなしにもかかわらず、同時進行でおおいに飲んでいるし食べてもいる。
嬉々として恋愛話に花を咲かせている様子はとても楽しそうで微笑ましくもあり、話を聞いているうちに思わず笑みが零れる。
いつも賑やかで騒がしくて好戦的なグレルが苦手だと感じる時もあるが、ポジティブな部分は羨ましいとも思った。

「…やっと笑ったわネ」

アンタはちゃんと可愛いんだから、いつも笑顔でいなさいよと軽く頬をつねられた。
痛みを感じる間もなくグレルの手はすぐに離れ、運ばれてきたばかりのトライフルのイチゴを素早く奪われる。
しかも中央に乗っていた一番大きいヤツだ。

「私のイチゴ…」
「だからさっき注意力散漫だって忠告したじゃない」

柔らかくみずみずしい赤い果肉に鋭利な白い歯をたてながら、美味しそうにイチゴを味わうグレルの様子を、ルカは恨みがましく見つめた。



「ねぇ、アタシの部屋で飲み直さない?」

とっておきのワインがあるのと、グレルは心なしか目を輝かせている。
その燐光に含まれるグレルの意図が、ルカには掴めなかった。

店を出た直後ではあるが、あまり酔っているようには見えない。

まだ飲み足りないのだろうか。
もう少し一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。
どこか覇気のない、世話の焼ける後輩と。

「私じゃなくてスピアーズ先輩を誘えば?」

それができれば苦労はないワヨとグレルは苦笑する。
綺麗な笑顔だと思った。

元々黙っていれば、女性が放っておかないような端正な外見ではあるのだ。
本人は不本意だろうし、ノーメイクのグレルは見たことがないけれど。

少しだけ迷ったものの、今日は止めておくと笑顔で答えた。
この前深酒のせいで失態を演じたばかりだと、危うく口にしそうになるも何とか飲み込む。

グレルとは一夜の過ちのようなことはまずないだろうと思いつつも、万が一ということも考えられる。
意外にすんなりと受け入れてしまいそうな自分を、酔いの回った頭で冷静になれと諫めた。

わかったワと、グレルはあっさり諦めてくれた。
無理強いしても許される線引きがスマートだ。
紳士だと思ったが、さすがに怒られそうなので口には出さない。

「じゃあまた今度ね」

そう言いながらルカに歩み寄ったグレルは、彼女を抱き寄せると血色の良い頬に唇で触れた。
耳に響くリップ音。
それはあまりにも自然な仕草で、ルカは一瞬何が起きたのか把握できないでいた。

きっと単なる別れの挨拶に過ぎない。
きっとアルコールの勢いだ。
そうに違いない。
けれど、唇にとても近いキスだった。

グレルは笑いながら片手を上げて、ルカに別れを告げる。
夜の闇にもくっきりと映える赤い後姿は、徐々に見えなくなった。



20191012