瀟洒な調度品で装飾された老舗ホテルの長い廊下は、磨き上げられた窓から差し込む早朝の陽光に照らされている。
眩しさに目を眇めたカミーユは、二人分の朝食が乗ったワゴンに両手を添え、慎重に歩を進めた。

数日に渡って宿泊しているその客が食事をオーダーしたのは、今朝が初めてだった。
チェックイン時には一人だった筈だが、奥方か愛人が昨夜あたりに遅れて到着したのかもしれない。

どちらにしても余計な詮索はせず、淡々と職務をこなすべきだとカミーユは自らに言い聞かせた。

かつては栄華を誇った貴族たちの地位は今や簡単に脅かされ、呆気なく没落する時代になった。
新しい産業や文化がめまぐるしく発展を遂げる中で、その潮流に乗り損ねた知恵なき者は、身分がどうであれ即座に淘汰される。

上流階級とは無縁の筈のカミーユも、以前まで勤めていた名家が凋落する様をすぐ傍で見届ける羽目になり、必然的に職を失った。

寡黙で真面目だと評された勤務態度が功を奏し、このホテルへ紹介してもらえたのは本当に幸いだった。
ボタンをひとつ掛け間違えるだけで、簡単に最下層へと転落してしまう実情を彼女は知悉している。

直裁的に自分の身体を売らざるを得ない生き方に身をやつすのは、何としても避けたかった。
そこにいる女性たちを蔑んでいる訳ではなく、ただ、自分がそうなるのが怖いだけだ。

同僚や近所の人の口の端に上る、娼婦に関する下世話な噂。
無責任で面白半分に語られる酷い逸話の数々を、彼女は嫌という程耳にしていた。

近隣諸国までをも震撼させた、英国の切り裂きジャック事件の残忍な犯行や、その惨状も聞き及んでいる。
だからこの勤め先でも、真摯に従事しようという彼女の主義には揺るぎがなかった。



目的の部屋へ到着し、ワゴンの上のクロッシュを少しだけ持ち上げて朝食をチェックした後、カミーユはほっと息を吐く。
マホガニーの扉を控えめにノックするとすぐに開いたので、礼儀に則った笑顔を整え、恭しく挨拶を告げた。

「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」

カミーユが顔を上げると、最初に銀髪が目に映った。

膝下まで届きそうな長いプラチナシルバーが朝の光にきらめき、彼女は思わず目を細める。
ナイトガウン一枚で佇む男性の姿は特に気にならない。
貴族の家に仕えていたカミーユは、寝起きの主人のあられもない格好など見慣れている。

それよりも、くつろげた胸元や首の白い肌を走る、いくつもの生々しい傷痕に彼女は息を呑んだ。
その大きな傷は、誰もが魅了されるような端整な顔にまで及んでいる。

色々な意味で目立つ外見とは裏腹に、彼は穏やかな笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。
そうしながら、長い前髪の隙間から見え隠れしている黄緑色の双眸で、カミーユの挙動を冷静に見定めているようにも思えた。

生涯残りそうな傷痕を痛ましくは思ったが、一介の客室係の個人的な感情は不必要だと理解している。
不躾にならないように自然な仕草で目線を下げたカミーユは、部屋の中へとワゴンを移動させて、朝食の給仕に専念することにした。

「ああ、ここまででいいよ。ありがとう」

ワゴンの端を掴んだ彼の手の指先、長く伸ばされた艶やかな黒い爪に、彼女は動揺を覚えた。
ひんやりとしたその手がカミーユの荒れた手の甲をすくい上げ、過分なチップを渡してくれたことにも。

心から感謝の言葉を伝えた彼女は、労働力をほとんど提供することなく、静かにその部屋の扉を閉じた。
ほんの短時間の風変わりな宿泊客との邂逅を、カミーユが方々へ触れ回ることはなかった。



遠くから聞こえる誰かの話し声でルカは目を覚ました。

細やかな刺繍が施された上等なドレープカーテンが引かれたままの室内は既に眩しく、重い瞼がなかなか持ち上がらない。

肌に触れる心地良いシーツの感触で、自分が何も着ていないことがわかる。
霞がかった意識の中、昨夜の出来事を徐々に思い出した彼女は、自分の愚かさを自覚しながら溜息を吐く。

彼と一夜を過ごしたことはもういい。

夜明け前に早々に立ち去る筈が、悪夢を見ることもなくぐっすりと眠った挙句、彼の方が早く起きているらしき現状に眩暈を覚えた。
しかも自分の身体は能天気に空腹を訴えてもいる。

もやもやとした感情を持て余しながら、ルカは仕方なく身を起こした。

「小生が寝ている間に、君はいなくなっちゃうかなあと思ってたんだけどねぇ」

…確かにその算段ではあった。

嬉しい誤算だったよと呟きながら、朝食の乗った大きなトレーを運んできた彼は、そのままベッドの上に置いて自分も腰を下ろした。

部屋には優美なデザインのテーブルもあるというのに、ここで朝食を済ませる気なのだろう。
彼が適当に着たらしきナイトガウンの襟元や結び目が緩んでいるのが目に留まる。

普段は暑苦しい程に着込んでいる彼の見慣れない姿に、気恥ずかしさよりも違和感を覚えた。
ルカ自身もシーツを巻き付けているだけの格好なので、言えた義理ではないのだが。

着崩れたガウンにしても食事の作法にしても、行儀が悪いなどと指摘する気はとうに失せている。
けれど目のやり場がないのは確かなので、ルカは溜息を吐き、指先だけで仕方なく彼を招いた。

大人しく自分の間近に座り直した彼の、腰周りの紐をためらうことなくほどく。
積極的だねぇと楽しそうに目を輝かせる彼を黙殺しながら、ガウンの身頃をしっかりと合わせた上で固く結び直した。



ポットを持ち上げた彼は、手慣れた仕草で二つのカップに紅茶を注ぎ分ける。
その一つを手渡され、ルカは小声で渋々礼を言いながら受け取った。

何が可笑しいのか、彼がふっと短く笑う。
前髪を後ろに流しているので、和やかな感情と共に目が細められたのがわかる。

普段とは種類の違う優しげな笑みに気付き、何とも言い難い雰囲気にいたたまれなくなるが、カップから立ち昇る香りが彼女を落ち着かせた。

熱さに注意しながら少しずつ口に含むと、芳醇な風味が広がる。
格調高いホテルだけに、良い茶葉が使われているのだろう。

「君はよく眠っていたよ」

聞いてもいないのに、カップを片手に彼は話し始めた。

協会は相変わらず人使いが荒いようだねぇ。
…それとも、小生のせいかな?

彼が最も言いたいことは理解できたが、恥らう様を悟られるのも癪で、ルカは黙ったまま彼を睨み付けた。

ヒッヒッ怖いねえなどと愉快げに笑いながら、彼はクロワッサンを大きめにちぎり、もぐもぐと咀嚼している。
ふんわりとしたバターの香りが、こちら側にまで漂ってきた。

取りあえず今は食事に集中することにしよう。

カップをソーサーへ戻した後でオムレツの皿を手に取り、フォークだけで切り分けながら口元へと運ぶ。
卵の柔らかな舌触りとチーズの風味に思わず表情が綻んだ。

明るい陽射しに満ちた暖かい部屋の中で、美味しい朝食を堪能しているうちに、気持ちまでもが緩んだのかもしれない。
気付けばルカは、普段なら決して打ち明けないだろうことを口にしていた。

「いつもはあまり眠れないんだ」
「…悪夢にでもうなされるのかい?」

そう問いかけながらも彼は確信的な口振りだった。
離脱する前には、ルカのような同僚を何人も見てきたのかもしれない。

それとも彼自身がそうだったのだろうか。
それは今も続いているのだろうか。

何故か聞き出すことができずに、彼女はただ素直に頷く。

あらゆる生命が芽吹き、育まれながら成長を遂げ、そして寿命が尽きるまで生きてゆくためには光が必要不可欠だ。
この部屋に差し込む陽の光は、こんなにも明るく降り注いでいる。

けれど通常の生を自ら踏み外し、歪に生き永らえるルカたちの領域には決して届かない。
昨夜の微かな月明かりさえ眩しく感じる程、遠いところまで来てしまった。

この世界の夜はどんなに暗くても、いつしか必ず黎明の朝が訪れるというのに。
まるで永遠の夜のような闇の中で、僅かな光も享受できないまま、これからも悪夢を道連れに足掻き続けるしかないのだろうか。

「思い悩むだけ無駄だよ」

感情のともなわない彼の声が明瞭に、そして冷淡に響いた。

我に返ったようにルカが顔を上げると、今しがたの言葉とはそぐわない、穏和な笑みを浮かべた彼の姿がすぐそばにあった。
傷だらけの両腕を伸ばし、ルカの頬を包む彼の手はいつものように冷たい。
けれど、慈しむような優しさに満ちている。

それでもきっと、これからも君はずっと考え続けるんだろうね。
小生のように、そこから逸脱することもなく。
ねえ、つかの間だけでも忘れたいなら、そのための時間ならいくらでもあげる。
だから、もう泣かないで。

ルカを引き寄せた彼は、彼女の背中を繰り返し撫でている。
まるで泣きじゃくる幼い子供をあやすように。

無意識のまま彼に縋り付き、胸を抉るように渦巻く暗い感情や、目に滲むものを、ルカは懸命に堪えた。

「…泣いてない」
「昨夜は泣いてたよ」
「今は泣いてない」
「…そうだね」

彼の両腕に力がこもるのがわかる。
息が止まるような強い抱擁は、その一瞬だけ何もかもを忘れさせた。



朝食を終えたルカは、バスルームで身支度を整えた。
部屋に戻ると彼もようやく着替えたようで、クライアント向けなのだろうか、昨日と同様に白いシャツの姿だ。

とうに見慣れている筈の彼の燐光が易々とルカを射竦める。
強引に抱き寄せられても、今迄のような毅然とした態度で拒絶できなかった。

上を向かされ、頬をくすぐる長い髪と共に落ちてくる彼の唇を大人しく受け止める。
啄ばむような触れるだけのキスはひたすらに優しく、彼女は内心で戸惑った。

その唇が執拗に首筋を辿り出したところで、ルカは彼の目的を察した。
…飽きもせずというやつだ。
そもそも何故着替えた後に迫るんだ。

「今日も今から回収がある」
「…仕事がなければ、どうだった?」

ねぇ、君は小生の誘いに応じたのかな。昨夜のように。

ルカを抱きすくめたまま彼女の耳朶にくちづけた彼は、吐息交じりの言葉を甘く吹き込む。
骨ばった指がきっちりと結ばれたルカのリボンタイを軽く引っ張ると、すぐにほどけた。
長い爪をともなう指先が、止めたばかりのボタンを器用に外してゆく。

長身の彼を見据えたルカは、先程ベッドの上でそうしたように人差し指だけで手招く。
彼が更に身を屈めたところで一度膝を落とした彼女は、次の瞬間勢いよく伸び上がって頭突きを食らわせた。

簡単にかわされるかと思いきや、意外にも手応えがあった。
さすがの彼も油断していたのかもしれない。

「調子に乗るな」
「ヒッヒッヒ…クリーンヒットだよ〜。不意打ち過ぎるよぉ」

赤くなった額を押さえた彼は、さすがに痛いねぇと不気味な声で笑いながら床に崩れ落ちた。
更に痛そうな音がしたが、高価だと思われる厚めの絨毯が敷かれているから大丈夫だろう。

そもそもルカの攻撃に倒れたのではなく、単に面白さに耐え切れずに脱力したに違いない。
…何だか無性に腹が立った。

床に伸びたまま延々と笑い転げている彼を呆れたように一瞥したルカは、手早くボタンを止めてリボンを結び直し、今のうちに立ち去ることにした。

「楽しかったよ。またね〜」
陽気な声に仕方なく振り返ると、床に寝転がったまま頬杖をついた彼が、上機嫌な様子で手を振っていた。

(…シャツが皺だらけになってしまえ)



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20190606