外見は人間のそれでも、驚異的な寿命と体力を誇る死神は、けれど決して不死身ではない。

 補給と休息を必要とし、すなわち食べもするし眠りもする。

 攻撃を受ければ傷も負うし相応の苦痛も伴う。

 だから、少しの油断が命取りに繋がる。





 幾多もの煙突から立ち昇る粉塵の所為で、ルカの視界に映るロンドンの空はひたすらに暗く、灰色に薄汚れていた。

 憂鬱な気分を増長させるようなこの景観は、目覚ましい勢いで発展を遂げている英国の犠牲になったものの一つだ。

 日中にもかかわらず薄暗い路地の石畳の上、仰向けに倒れたままルカは動くことができずにいた。

 重傷を負ったことだけは辛うじて理解できるものの、満身創痍な自分の状態を正確に把握することは困難だった。

 夥しい失血の所為で意識が遠退きそうになりながら、耐え難い痛みの中、浅い呼吸を何とか繰り返す。

 これならば即死の方が余程マシだと毒吐きたくなるが、それすらもできずにいる。

 今回の仕事で組んだ新人は少し離れた場所で自らの血溜まりに沈んでいて、その相手の命が既に尽きていることをルカは悟った。

 自分の方が運が良かったなどとは、この状況ではとても思えない。

 長い溜息を吐こうとしたところで鋭く咳き込み、焼け付くような痛みと共に口から溢れ出した生温い粘液が唇の端や喉を伝い落ちる。

 …くそ、新しいシャツが台無しだ。

 自分の血で窒息せずに済んだ状況を棚上げにして、酷くなる一方の痛みと不快な感触と口腔に広がる鉄臭に顔をしかめながら、ルカは心中で悪態を吐く。





 攻撃を受けた時に眼鏡は吹き飛ばされてしまい、彼女の視界は不明瞭に霞んでいた。

 油断すると意識も飛びそうになるので、視力の所為ばかりではないのだろうが。

 5つの魂を回収し損ねた。新人も屠られた。そして自分もこの体たらくだ。

 …これだから飢えて見境を失くした害獣は性質が悪い。

 後始末の煩雑さを考えると気が重くなる。

 神経質な仕草で眼鏡のフレームを押し上げながら、冷静に長広舌に嫌味を吐く上司の姿は容易に想像が付いた。

 何枚もの始末書を要求されるだろうが、それだけで済むとは思えない大きな失態だった。

 謹慎どころか停職も免れないかもしれない。

 不意に自嘲めいた笑いがこみ上げるものの、痛みに支配された身体は全く力が入らない。

 自分の命が風前の灯だというのに、気になることと言えばシャツや始末書といった瑣末なことばかりで、それが酷く滑稽に思えた。





「宵っ張りの君が寝るのにはまだ早いんじゃないのかい?」

 突然耳に届いた聞き覚えのある声に、ルカは身構えることもできないまま声の主を探った。

「こんなところじゃなくて、小生の棺で眠ればいいのに」

 極上の寝心地だから、そのまま天国に行けるかもしれないよ。

 …まあ、もうすぐそうなるみたいだけどねぇ。
 
 しゃれにならない、そして当事者なだけに全く笑えない冗談だ。

 突如としてルカの視界に入り込んだ葬儀屋は、彼女を見下ろしながら自ら笑ってみせた。





 害獣以外に存在していた掴み難い気配はこいつだったのかと、ルカは先程の戦いを思い返す。

 …全く、得体の知れない奴だ。

 どうせその不気味な薄笑いを浮かべながら高みの見物でもしていたんだろう?

 そう言ってやりたいところだが、今はその余力すら残っていなかった。

 口元を僅かに歪めて痛みに呻くのがやっとだ。

 それでも彼はルカの意図を察したかのように、唇の端を更に吊り上げ笑みを深くしてみせた。

「小生が君に加担する謂れはないからねぇ。中立の立場だよ」

 嘘吐け。悪趣味め。

 きっとこいつは人がいたぶられる様を楽しみながら見ていたに違いない。





 石畳に響く尖ったブーツの音が酷く耳障りだ。

 すぐ傍に彼が屈み込み、ただでさえ曖昧だった視界が不意に暗い影に覆われる。

 彼の黒衣が石畳を濡らしていたルカの大量の血に赤黒く汚れた。

 赤く染まったシャツの上に銀髪が零れ落ちる。

 長い爪を伴う彼の手が、引き千切れた袖から覗く裂傷を負った肌を辿り、投げ出されたままのルカの手に絡まる。

 覆い被さるようにして間近に顔を寄せた彼の前髪の隙間から、愉悦の光を湛えた黄緑色の双眸が見えた。

「これでようやく君は小生のものだね」

 ルカの耳朶に唇で触れながら、まるで睦言のように彼は低く囁く。

「何しろ生前の君は取り付く島もなかったからねぇ」

 小生はこんなにも君のことを想っているのに。

 君はもう何もできないし文句だって言えないから、小生の思うがままだね。

 長い間、色々と考えていたんだよ。

 魂と記憶を失った君の身体に、あんなことやこんなことをしたいなぁってね。





 傷一つない時でさえ、彼に敵わないことは解っていた。

 それでも今は、力任せにデスサイズを食らわせながら、思う存分罵詈雑言を浴びせてやりたかった。

 身体が伴わないことに歯軋りしたい気分だ。

 それすら叶わないのが酷く悔しい。

 ああ、このまま死ぬのか。

 こんな最低な奴に看取られながら。





「大丈夫だよ。色々弄らせて貰うけど、最後にはちゃんと綺麗にしてあげるからね」

 頬に触れる冷たい手。

 彼の長い爪と指先が、愛おしげにルカの肌を辿る。

 苦痛と屈辱に喘ぐルカの唇に、彼のそれが緩やかに押し付けられる。

 侵入した彼の舌が、唇と口腔にこびり付いた血を舐め取るかのように執拗に這い回る。

 僅かな抵抗さえ許されず、ルカの意識は朦朧とし、やがて途絶えた。

 …さすがに手応えがないねぇ。

 そんな言葉が遠くで聞こえたような気がした。









 
 見覚えのない部屋が視界に広がっている。

 混濁した意識と曖昧な記憶の中で起き上がろうとすると、身体中が痛みで軋み、ベッドの中で情けなく呻く羽目に陥った。

 酷い頭痛と眩暈にも襲われながら浅い呼吸を繰り返していると、ノックもなく部屋の扉が開いた。

「おや、もう意識が戻ったんだね」

 ルカの一番会いたくない人物は、相変わらずの不気味な笑みを浮かべながら後ろ手に扉を閉じた。





「全く君もしぶといねぇ。せっかくあんなことやこんなことができると思っていたのに…小生はがっかりだよ」

 どうにか半身を起こして今度こそ悪口雑言を浴びせようとすると、すかさずビーカーに入った紅茶を押し付けられた。

 自分の身体の各箇所には存外丁寧に包帯が巻かれていて、まるでミイラのような姿に苦笑を覚える。

 衣服は何も身に着けていない有様だったが、動揺する様を見られるのは癪に障るし、一応上掛けで覆われてはいるし、今更気にかけるのも馬鹿らしく思えた。

 彼にしてみれば異性の裸体など職業上見慣れている筈で、そして何よりも彼の関心は“表皮”よりも“中身”にあるのだ。

 …悪趣味め。

 恐らく命があることを至極残念に思いつつ、冷静に手当てを施したのだろう。

 今も全く動じることなく、普段通りの笑みを浮かべた彼はいつの間にかベッドの端に座り、骨壷から取り出した骨形の悪趣味なクッキーを齧っている。

 不意に思うところがあり、ルカは腕の痛みを堪えながら上掛けを少しだけ捲くって腹部に目を落とした。

 こいつなら意識がないのをいいことに、開腹して好き勝手に弄るくらいのことはやってのけそうだ。

 そう勘繰ってはみたものの、路地で攻撃を受けた以外の外傷や縫合の痕は見当たらず、思わず安堵の息を吐く。

「…その手があったねぇ」

 ルカの動作の理由に思い至ったらしき彼はそう言うと急に吹き出し、ベッドの上に転がりかねない勢いで身を捩りながらひとしきり笑い続けた。

 治まる気配のない耳障りな笑い声にルカが苛立ちを覚えた頃、お楽しみはひとまず取っておくことにするよと、彼はやっとのことで言葉にした。





「ところでそれ、飲まないのかい?」

 彼はルカの手元にあるビーカーを指差した。

 …何だか嫌な予感がする。

「飲めないんだったら、飲ませてあげるよ」

 口移しがいい?漏斗もあるよ?と彼は無邪気ともとれる態度で尋ねてきた。

 やはりな。

 冗談のように聞こえても、こいつなら本気でやりかねない。

 彼を冷めた視線で一瞥して、何とか口元へと運ぶ。 

 香り高い紅茶は、まさしくミイラのように干乾びていた身体に沁み込むようだった。

 僅かに動くだけでも身体中が酷く痛むが、確かに生きている証拠だ。

 安堵を覚えている自分に気付き、ルカは再び苦笑する。

 本来ならば始末書や謹慎等の心配をするのはこのタイミングなのだろうが、最早どうでもいいことに思えた。

 だが最低な奴に借りができてしまったのは事実で、結果として助けて貰ったにもかかわらず、心底舌打ちしたい気分だ。

 更には短い相棒だった新人の処置も手配してくれたらしい。

 …本当に最低なのは自分の方だ。

 目の前で能天気にクッキーを齧り続けている彼を眺めていると、急に気分が滅入ってきた。

「後悔するぞ」

「ヒッヒッヒ…怪我人の癖に威勢が良いねぇ」

 でもそれでこそ君らしいよと、ほとんど八つ当たり的なルカの威嚇を、彼は笑いながら軽く往なした。

 それにしても、彼の望む結果に至らなかったにしては実に楽しそうだとルカは内心で首を傾げる。

 こいつの目的は一体どこにあるのだろう。

 色々と不気味なのは確かだが…やはりよく解らない奴だ。





「それを飲んだら、もう少しお眠り」

 こちらに伸ばされた彼の手が抵抗する間を与えることなくルカの頬に触れ、乱れていたらしき髪を梳いた。

 思わず肩を竦めるもその仕草は優しげで、あの路地で自分に対して散々酷い言動を取った人物と同じだとは到底思えなかった。

 今回の件や今までの経緯もあり、ルカはどうしても彼に感謝の言葉を告げることができないでいた。

 取り敢えず空になったビーカーを彼に返し、素直に身体を横たえ目を閉じる。

 変わらず痛みが続いているし、まずは体力回復に努めるべきだと思ったのだ。

 今更殺されはしないだろう。

 彼は一向にベッドから立ち上がる気配がなく、ルカのすぐ傍で何枚ものクッキーを次々と噛み砕き続けている。

 遠慮のない咀嚼音が延々と続き、一体何の嫌がらせだと再び苛立ちを覚えたが、それも僅かな時間だった。

 ありがとうと伝える代わりに、覚えていろよとまるで下手な悪党のような台詞を心中で呟きながら、やがてルカは深い眠りに就いた。





(…君がいなくなるのもつまらないからね)



20120418



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