あなたと過ごした長い歳月を思い出す。
印象に残っているのは随分前の光景だった。
瑠璃壁から抜け出して、覚醒前の最後に見た眩しい太陽の光。
どこまでも広がる青い海や、無邪気に喜ぶイオンの碧い瞳。
鮮烈な光に透けるあなたの黒髪は、とても綺麗な濃紺の青だった。
「陛下がご臨席だというのに、心ここにあらずだったね」
御前会議後の帰り道のことだ。
大円蓋の間を後にした二人は混雑を避ける為に、殆どの者が利用する大廊下ではなく、庭園へ続く通路に迂回した。
「そう言う君はちゃんと話を聞いていたのか」
ラドゥはどこか嘲笑めいた笑みをルカに向けている。
君も上の空だったことはお見通しだと言わんばかりだ。
「集中できない理由があるんだよ」
「眠い上に空腹だったんだろう。会議前に食事を取らなかったからだ」
「そんな下らない原因だったら良かったんだけどね」
ルカは暫くの間、ラドゥから目を逸らさずにいた。
まるでその原因は彼にあるのだと訴えるかのように。
口許に残る笑みを完全に消したラドゥは、怪訝な表情をやがて険しいものに変えてルカを見据えた。
容赦のない彼の視線を受け止めながら、ルカは苦笑する。
「ラドゥは詰めが甘いなあ。何も言わないつもりなら最後まで隠し通さないと」
「…何のことだか解らんな」
最早彼の表情からは何の感情も読み取れなかった。
私はあなたが進もうとしている道を知っている。
それを陛下に進言しないでいることは、やはり間違いなのだろうか。
いつの間にか心の奥底にこびり付いていた、納得のできない何か。
母とも崇めるあの方の偉大な力を心から崇拝しては敬い、従属する。
当然とされていることに疑問を覚え、気持ちが揺らぐことは間違っているのだろうか。
この時点で煩悶している者は、決して表面化はしないものの、実は多いのかもしれない。
その結果、ラドゥは何らかの答えを出して、立ち上がることに決めたのだ。
この国の為に、この国を捨てる覚悟で。
沈黙を守ったまま二人は歩き続ける。
やがて黄昏色に染まる広大な庭園に出た。
「…決めてしまったんだね」
隠し立てが最早無意味だと悟ったラドゥは、小さな溜息を吐いた。
「君が他言するとは思っていない。けれど借りができたとも思わない。…返す当てなど、もうないんだ」
酷く冷めた低い声だった。
その一方で彼の表情は、あらゆる感情を必死で押し隠しているようにも見えた。
「もっと早く気付けば良かった」
「だとしても結果は同じだ。君が悔やむことじゃない」
ラドゥの素っ気ない台詞は、けれどどこか優しかった。
いつもそうだ。彼は決して、自分の本音や弱みを吐露しようとはしない。
誰にも打ち明けることなく、たった一人で苦悩した末の結果がこの現状だとしたら。
「ずっと待ってる、と言ったら?」
「そんな健気さは君らしくない」
漸く微かに笑みを見せたラドゥは、ルカの頭をくしゃりと撫でた。
「それに…無駄に終わる」
ラドゥのその一言は、彼の今後の全てを物語っているように思えた。
強引な変革により、もたらされるもの。
新しい基盤がある程度の形を成すまでは、途方もない時間と幾多もの命の犠牲が強いられるに違いない。
ラドゥには、既にその覚悟さえできているのだろう。
このまま彼を行かせる訳にはいかない。
けれど、そんな彼のやり方が間違っているとも思えないのだ。
「…泣くな」
「こんな時に泣かないでいつ泣くの!」
自分の湿った声が、涙を助長させたのかもしれない。
今まで堪えていたものが溢れ出したように、涙は次々に頬を辿った。
解っていたのに何もできなかった。
彼の支えになることも、彼を止めることも。
「ルカ…泣かないでくれ。頼む」
ラドゥは小さな声で呟くと、ルカの頬にそっと触れた。
珍しく戸惑う彼の様子を見て、ルカは益々涙が止まらなくなった。
こんな時になって、そんな姿を見せるなんて卑怯だ。
けれどこんな時になって、涙を見せる私もまた卑怯なのかもしれない。
「一人で悩んで一人で決めて。一人で行ってしまうんだね」
悲哀に満ちた彼女の瞳から、新しい涙が零れる。
これ以上ルカを見ていることができず、ラドゥは彼女を引き寄せると強く抱き締めた。
嗚咽を堪えるルカの肩の震えを沈めるように、ラドゥは両腕に力をこめた。
最後まで私を悩ませたのは、イオンや彼女の存在だった。
二人の真っ直ぐな思いは、時として私を酷く苛立たせ、彼らとの深い隔たりをも感じさせた。
共に過ごす時間が長くなる程、その思いは増長した。
それでも決別できないでいたのは。
手の届かない二人が眩しかった。
陽の光の下を歩くことはできないけれど、それでも二人は常に光の中に存在していて、いつも私は憧憬めいた感情を抱いていたのだ。
イオンは私の決意に全く気付いていない。
彼女もそうだと思って疑わなかった。
けれど、今更後戻りはできないのだ。
私達にとっての眠りの夜を、最初で最後の夜をルカと共に過ごした。
長い時間を費やし、熟考の末に導き出した私の決意。
だからこそ、その意志は強固で揺るぎないものだと信じていた。
けれど、そんな決心さえ脆く崩れ去ってしまうようなひとときに、私は我を忘れそうになった。
到底届かないと思っていた光に、漸く手が届いたような気さえした。
けれど同時に、自ら決めた今後の道を、どこか冷静に見つめてもいたのだ。
心身共に震えるような喜びと快感に浸りながら、私の意識は鋭く研ぎ澄まされていた。
明かり一つない薄闇の中、ラドゥは衣服を身に着けるとベッドの端に腰を下ろした。
この場から離れ難くなっている自分に気付き、溜息混じりに自嘲する。
「…未練だな」
口許だけで呟くと、穏やかな表情で眠るルカに唇を寄せる。
数時間前に何度も交わした口づけよりも、更に想いをこめて。
ゆっくりと立ち上がると、ラドゥは足音一つ立てずに部屋を後にした。
いつの間にか隣のぬくもりが失われていることにも気付かず、ルカは眠り続けているように見えた。
けれど彼女の長い睫には、うっすらと涙が滲んでいる。
それはやがて、ルカの目尻を静かに伝った。