夜毎、彼女をおとなう影がある。
密やかに、緩やかに。
静謐をまとう夜の闇から、彼は現れる。
悪魔さん、こんばんは。
私より顔色が悪いみたいだけど大丈夫?
…私は悪魔ではありません。
だって、影から出てきたでしょう?
魔方陣もないのに自由自在なんだね。
自分の足元にある暗い影を見下ろし、まあ似たようなものかもしれませんと彼は薄く笑う。
おもてなしもできず、ごめんなさい。
私はここから出ることができないの。
柔らかなリネン、手触りの良い枕、ひどく心地よいベッドという名の牢獄。
どうか、気になさらないで下さい。
貴方の余命は…あと僅かなのだから。
何でもお見通しなんだね。
ええ、貴方のことなら何でも。
永らえたいとは思いませんか。
この世界に。
魂と引き換えに?
いいえ、私が欲しいのは貴方そのものです。
その苦痛とあらゆる枷から逃れて、長い歳月を生きることができる。
健康な身体で何不自由なく。
…本当に?
悪魔ではありませんがね。
誘惑が上手だからやっぱり悪魔ね。
彼は静かに跪いた。
長い黒髪が肩から滑り落ちる。
白い手袋を取り去り、伸ばされた彼の青白い手は彼女の目前にあった。
さあ、契約の証に。
彼女は長い時間をかけて逡巡する。
光らない漆黒の双眸がすぐ傍で彼女を見ていた。
底なしの闇のような、何もかもを見透かすような色を湛えて。
それはまるで悪魔が仕掛ける、甘く抗い難い篭絡の罠のように。
彼は差し出したその手を微動だにさせず、彼女をただ待ち続けている。
この手を取った先には何があるのか、考えなど及ぶ筈もない。
日々一刻衰弱してゆく自分の命。
その終焉の前にこの手を取れば、全てが変わるというのだろうか。
それでも。
伸ばされた彼の手に彼女の手は重ならなかった。
…ご期待に沿えず、ごめんなさい。
それでは、また訪れることにしましょう。
彼は静かに立ち上がった。
どうか、良い夢を。
恭しく一礼した黒い悪魔は己が影に消える。
何の痕跡も残すことなく。
密やかに、緩やかに。
静謐をまとう夜の闇に溶け込むように。
こんばんは、悪魔さん。
今夜で何度目の逢瀬?
何度来ても無駄だよ。
これは人聞きの悪い。
私はただ、あなたに会いにきているだけですよ。
衰える様を眺めて楽しむなんて、やっぱり悪趣味だね。
喉の奥で、声を立てずに彼は笑う。
だからこそ美しいのですよ。
生きとし生けるものはいつしか滅びゆく。
その当然の摂理が。
だからこの世界を、業火で。
あなたの命は永遠なの?
だから、刹那のものに憧れているの?
…さあ、どうでしょう。
肯定も否定もすることなく、彼は静かに笑う。
ただ、貴方はとても魅力的です。
私を惹きつけてやまない。
淡々と彼はそう告げた。
底なしの闇のような、光らない漆黒の双眸で彼女を捉えながら。
血の気を欠いた唇に、彼女は心からの笑みを刻む。
やがて彼に向けて差し出された手はけれど緩慢に空を掻き、彼女は静かに瞼を閉じた。
その瞳が見開かれることは二度となかった。
ちょっと遅かったみたいだね。
どこからともなく響いた声を、彼は黙殺する。
人の命など実に呆気ないものだ。
ああ、だからこそ美しい。
彼女に告げた言葉に何一つ偽りはなかった。
いつしかのように彼は跪くと、痩せさらばえた青白く小さな彼女の手を取り、その甲にくちづけた。
旧時代の騎士のように。
20100602